カナを再定義する

ひらがな と カタカナ

よく知られている通り、日本語には 1つの音を表すために ひらがなと カタカナの 2系統の文字があります。

英語など他の言語では大文字小文字の区別はあるものの、大抵の場面では小文字だけで事が足り、とくにインターネット上で取り交わされるような雑談、チャットの類では小文字のみでやり取りしているケースも少なくありません。

日本語におけるカタカナの厄介なところは、それを使用すべき場面についてのルールが非常に複雑で曖昧なところです。

一般的には以下のようなものがあります。

  • 外来語 (コンピュータ・スーツ・サラダなど)
  • 化学、生物分野での識別名 (ヒト・キジ・サクラ・イワシ)
  • 擬音語、擬態語 (トントン、スラスラ、パリッと)
  • 旧時代の法律関係(日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ …)
  • 昔の女性の人名 (トメ・ヨネ・ウメ など )
  • ペットの名前、その他の固有名詞

外来語に関してはそもそも定義がハッキリしません。

日本語はその多くを漢字に頼っており、この漢字 自体が もともと日本人の発明ではないものが多数です。(日本人が作った熟語や字である和製漢字も存在しています)

“古くから日本で使われている漢字は日本語だ” と してしまうのも うまくいきません。

たとえば“クラブ”を“倶楽部”と書いてみたり、“ガス”を“瓦斯”と書いてみたり、“ガラス”は“硝子”と書いたりします。
漢字変換すると同じものが日本語になるのでしょうか?

とくに奇妙なのは、中国の地名に関しては“北京”や“武漢”などと そのまま漢字を用いるのに対し、「アメリカ」という単語は Americaとせず必ずカタカナで書いたりするあたりです。

英語の扱いについてはすでに小学校でも必須となっていて、半ば常識に近いにも かかわらず、多くの場面ではカタカナへと置き換えられます。

このため中国語以外の言語の場合は いずれも比較的 もとの発音を維持した音が使用されるのに対し、中国語だけが例外的に本来中国人が自らする読み方とも まるで違うものが出回ってしまっています。

北京(ペキン)は「ベジン」、武漢(ブカン)なら「ウーハン」とでも書けそうなものですが、漢字をそのまま使う せいで 勝手な読みが横行します。

さらにややこしいことに、韓国人の人名は漢字で書きながら、その読みにカタカナを当てて読んだりします。たとえば“盧武鉉”を「ノ・ムヒョン」、“文在寅”を「ムン・ジェイン」とするなどです。

中国にしろ韓国にしろ、日本に無い固有名詞は、たとえ同じ漢字が使われていても日本語ではありません。

もし「アメリカ」を外来語としてカタカナで書くのなら「ペキン」もカタカナでなくては整合性が取れません。それで具合が悪いなら反対に、音をそのまま生かして武漢ウーハンのようにフリガナを振り、同様にCaliforniaカリフォルニアのようにすれば良いのです。そうすればフリガナの付いている箇所は全て外来語だとはっきりします。

日本のメディアで中国に関してなぜ漢字を現地読みしないかに関しては、明治の文部省による日本の取り決めから昭和の日中国交正常化の課程で、互いに自国での読み方を優先する相互主義という古い取り決めに依拠してのことです。

しかし日本の漢字は、同じ1つの字に呉音漢音に加えて慣用音という複数の読みが混在しているという問題があります。たどえばの「ニチ」「ジツ」、の「セイ」「ショウ」 などは、どちらが正しいということもなく、このどれを採用するかで1人の名前が何種類にも分裂してしまいます。また中国の漢字には 日本で一般的な読みの無い字もあり、そう簡単に読み方は決まりません。

どちらにせよ、インターネットや留学など交流を通じて誰でも世界中と つながりを持つようになった現在、メディアや国が決めた権威的な古いルールよりも、個人の人権意識が尊重される時代へと移行しつつあります。外来語の扱いについても見直すべきなのでしょう。

規則性の欠如

日本語の平仮名は、漢字を崩して生まれたものです。

たとえばから といった具合です。

一方のカタカナは漢字の部首を切り取って作られたとされます。

から といった具合です。

どちらも漢字から作られたと言う点では同じですが、いずれも無作為に選択した文字です。

そのせいで表音文字であるにも関わらず、音声学上の近しい音と、文字の形のあいだに何ら規則性がありません。( そもそも ひらがなが生まれた当初には、50音という考え方が ありませんでしたから、当然ではあるのですが)

は、ローマ字なら ka ki ku ke koです。これは同じkを子音としていることが分かりやすいですが、画数が多く手書きでは少し不便です。

しかし、たとえば韓国のハングルだと です。k,g音を表す に母音を合わせた合字であり、少ない画数で規則性を持たせることは技術的には十分可能であるという事が示されています。

ハングルはカナの生まれた平安時代よりもずっと後の15世紀に生まれたので、より洗練されていて然るべきですが、カナの改良は非常に中途半端なままです。

もうひとつ カナの 残念なことは、ひらがなと カタカナで元となった文字が異なっているものがいくつもあることです。そのため字形が全く似ていないものがあります。

由来としてを持つを持つや、からのからのなどです。由来が同じでもが同じ文字とは簡単には理解できません。

アルファベットで 同音の異体字である 大文字小文字は、現行のブロック体ではDdのように字形が大きく異なるものもありますが、CcUuなど大半が似た字形です。
(下線付きは”似ている”と言えそうな文字)

A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T U V W X Y Z
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z

またカタカナとひらか゚なで音が異なるのに形が似ているものもあります。カタカナと ひらがな、カタカナと ひらがな、カタカナと ひらがな、カタカナと ひらがな、などです。

そのほかにも形が似ていると言う点で言うと、 とか     など、それぞれ紛らわしいため 字を覚えたての子どもを困らせる 問題字です。

ただでさえ50字を覚えると言うハンディキャップがあるのに、字形に法則性が見出せないのは困りものです。

そこに加えて漢字との紛らわしさもあります。
の字は、漢字 ( ) と区別が困難です。

このため “人口オーナス” などの単語は その単語を知らないと 分かち書きをしないせいもあって 切れ目の判断がしづらいです。

横方向では 、縦書きでは   など、カタカナ2つを並べたような漢字もあり、特に手書きで サイズが不揃いだと これらの文字とも紛らわしい場合もあります。

また反対に、カタカナとひらがなで似過ぎていて区別のつかない文字もあります。

についてはカタカナか平仮名か区別がつきません。
も、トメハネをきっちり書かないと紛らわしくなります。

そのため「ヘリに乗る」などと書くと、へりか ヘリコプターの略か、紛らわしい表記になります。これではカタカナの外来語かどうかを分かりやすくする機能が無意味です。

全てのカタカナとひらがなが お互いに似ていれば、分かりやすくするための記法の統一もなされたはずですが、やり方がバラバラのため一律の対応も難しいです。たとえばカタカナは“ カ タ カ ナ”のように 少し縦長に細く、反対にひらがなは平たく横長に書くとかできたかもしれませんが、そうすると書きづらい文字が出てきたりします。

少なくとも ひらがなと カタカナで字形が あまりにも違いすぎるものは調整されても良いように思えます。たとえば変体仮名を使ってカタカナに ひらがなを合わせるなど、日本語の伝統を損なわないようなやり方は考えられます。

同音異字・異音同字

ひらがなとカタカナの文字種とは別に、同じ文字であるのに違う読み方をしたり、反対に違う文字であるのに同じ読みをする場合があります。

よく とりあげられるのは「こんにちは」のケースで、最後のと書かれるべきではないのかという議論です。

日本語のあいさつで使う言葉であって、日本の子供たちや 外国人が最初に覚えるような初歩中の初歩の単語ですが、いきなり変則的な記述が使われます。

分かりにくいことに字音一致を原則とするローマ字では 、“Konnichi wa” のように発音に合わせてhaではなくwaと書くようになっており、ミスを誘う罠が仕込まれています。

かつて旧仮名遣いから現代仮名遣いに改定された時、はひふへほの字は多くがわいうえおに改められました。たとえば “かおり”(香り) は 以前は “かほり” と書かれていましたし、同様に “言う” は “言ふ” であり “言わず” は “言はず” でした。

ですから原則論で言えば「わ」と読むは 全てに置き換えられるべきでしたが、抵抗勢力の妨げによって部分的に残ってしまって100年近く経っても改訂できないのが今の状況です。

もちろん日本語に限らず英語などでも同じ文字を色々な読み方をします。th が this のときと thing のときとで違うなどです。しかしそれよりももっと単純な組み合わせしか持たない言語もありますから、あえて覚えにくい方を好んで採用するのは合理性を欠く根性論や整理を先送りにする惰性の問題です。

日本語は “小売” と “高利” のように、同じ「コウリ」でも漢字を意識しないと「ウ」の読み方が定まらないケースがあり、単にカナだけ覚えても うまく発音を理解できません。“全員” と書いて「ゼーイン」、“店員“と書いて「テイイン」と発音するなど、発音からそのまま辞書を調べても漢字の特定困難な表現もあります。

日本語を使って日本社会で生活していくのに必要な文字はカナと漢字を含め1000以上、語彙としては10,000以上を学習しないと難しいと言います。特殊なパターンが突出して多いわけです。

これでは外国人から「世界で最も覚えにくい言語」などと酷評されても仕方がありません。もう少し整理しなければ、やがて日本語は その後継者を失っていくでしょう。

進化したカナのあり方

現在のカナは、平安時代にある程度形作られたものが少しずつバリエーションを増やしながら各地で独自進化をし、それが印刷技術が普及する明治維新以降の近代になって教育の一環として整備されてきたものです。

しかしその整備は上に挙げたように未だ完全な形にはなっていません。

情報通信が活発になったこれからは、基本的には より集約が進むと予想されます。ちょうどテレビの普及で子供達が東京中心の言葉を覚え、日本の方言がどんどん減っていくのと同様に、これからはさらに日本独自の分かりにくい言葉は急速に消えていく可能性が高いと いえます。

反対に外国語を基本とした言葉は増えていくと見られます。

これは言語そのものの機能性と言うよりは、その利用者の多さによって価値が高まるという ネットワーク外部性と 呼ばれるものが理由です。英語のように世界的に使われる言語や文字を用いることは、ビジネスで有利だからです。

disる(ディスる)のような突飛な例はともかく、「電話する」と同様に「LINEする」「ZOOMする」、のような英単語+スル型の動詞は増えると見られます。

形容詞では「ライトな」「ヘビーな」「サスティナブルな」のようにカタカナ語は現在もたくさんありますが、これがもっと増えると現在のカタカナの表現力では不足してくる可能性が高いです。例えば「ライトな」だと Light(軽い) と Right(正しい) が区別できません。そうなると これらも いづれ「Lightな」「Sustainableな」のようにそのまま英字表記になって普及する可能性は十分にあります。

コンピュータで入力可能となった現代では、画数の多さや字形の難しさは大した問題ではなく、キーボードなど入力装置で何回キーを押したり弾いたりするかのストローク数(打ち数)が重要です。

パソコンを使う日本人の多くはローマ字入力を使っていますから、カナかローマ字か表記の違いで入力スピードに差が出ることは ありません。

さらにスマートフォンのフリック入力や、音声入力となれば 画数や筆順は ますます どうでも良い問題で、見た目の判別しやすさや 覚えやすさ、他の語句との音の重複がないことの方が重要な要素になります。

覚えやすさと言う観点では、ひらがな・カタカナのうち片方は不要となる可能性もあります。単語境界の観点で言えばカタカナは便利ですが、分かち書きを使ったり漢字やアルファベットをそのまま使用すると カタカナと ひらがな の書き分けは ほとんど必要ありません。ひらがなで柔らかさや カタカナで尖った感じを出したければ、フォントや字の太さや色を変えればよいからです。

そうすると有効なのは ローマ字式カナづかいのような、音の表現力が高く字種は少なく、かつ日本人が読むのに難しくないというものが解の1つになるかもしれません。子音と母音を分けることで、子音を重ねたり二重母音も使えるようになります。

幸いコンピュータが入力の助けをしてくれる時代となっています。

紙に書かれた文字を書き換えるのは大変ですが、デジタルデータになったものは字形を換えるのは比較的簡単です。

仮に面倒だとしても、そのような面倒な作業は経済的観点で言えば新しい仕事が生まれることにつながり、一定の経済効果を見込めます。コロナ禍やリーマンショックのような突然の不況で仕事が不足したときには、大きな変化を起こして新しい需要を打ち出すことは有意義です。

日本人は旧仮名遣いから(昭和の)現代仮名遣いへ移行し、さらに漢字カタカナ混じり分で書かれていた大半の法律も今は ひらがなへと ほとんど書き換えられました。

今ある カナを変えることができないという道理はないのです。