文字の顔・文字の声

2021年8月初旬、コロナ感染者・陽性者が増えている中で、首相から出た発言の中に、次のようなものがありました。

「重症患者や重症化リスクの特に高い方には、確実に入院して頂けるよう、必要な病床を確保します」

この文面は、発言の内容をそのまま日本語の文字に起こしたものですが、この発言は色々な曲解を生みました。

中でも特に波紋を呼んだのは、「中等症は入院できない」という認識が一部で広がったことです。“中等症” は医師目線での定義で、放置して安全な状況とは 必ずしも言えないものです。これにより、自宅療養中に容態が悪化して死ぬ人が増えるのではないかという指摘が起こり、政府が対応に追われる一面がありました。

しかしこの解釈は いささか不当です。
①“重症患者” と ②“重症化リスクの特に高い方” は、分けて書かれているのですから、この2つのグループは異なる集団と解釈できます。そうすると②には 重症でない方 のうちの一部を対象としているわけで、「中等症を除く」集団であるかどうかは必ずしも明白ではなく、誤解に基づく誤報もしくは誇張であるとも見えます。

方針の是非についてここでは触れませんが、ここに日本語の持つトラップがあると考えられます。

漢字の圧力

日本語には、漢字・ひらがな・カタカナ、加えてアルファベットや数字などの文字種の使い分けがあります。

日本語の特に新聞の記事やニュースサイトの多くでは、横書きで半角の英数字を使う場合を除いて 1文字の大きさを全て同じ固定幅で印字します。このため漢字が使われている箇所は他の文字と比較して より黒く重みがあるような印象を与えます。特に画数が多い文字であればあるほどこれは顕著になります。

文字で見た時に特に注視されやすい箇所を色付けすると恐らく下のようになるでしょう。

重症患者重症化リスクのに高い方には、確実に入して頂ける...

カタカナの “リスク” や、その前の“化”、“の” “には” “して” のような ひらがなの助詞は 相対的に色が薄く、目立ちにくくなります。特には その前の “重症” を そうなる以前の状態であるとして打ち消していますから、見落としては いけない文字です。

この状態で、色付けした部分だけを 拾い読みすると、「重症の人と、特に重症の人」というイメージを起こしやすい可能性があります。

最初に誤解した人が果たしてテキストで見たか音声で聞いたかは定かではないですが、急いだり疲れていたりすると意味を取り違えそうな文字の使い方を含む文に見えます。

浅く早い思考・深く遅い思考

人間の脳のもつ思考回路には2つの異なる傾向を持つ部分があると言われます。

それが 早い思考・遅い思考 と呼ばれるようなものです。

早い思考と呼ばれるものには、とくに生命維持と強いつながりを持つ部分に現れ、反射的に恐怖や怒りなどの感情的変化をもたらすとされます。

たとえば 小さい蜘蛛クモヘビや毛虫などを見たとき、気持ち悪いとか怖いという反応が実際に有害かどうかに関わらず引き起こされたりします。 見た瞬間には「これは△△目〇〇科の蜘蛛で毒はなく安全」などといちいち考えたりはしません。これらの動物の中には体が小さくとも毒を持つものがいるため、誤って触ると非常に危険な場合があり、とっさに離れるのは適切な反応で、まず怖いと感じることは身の安全に有効と考えられます。

その後でそれが有害なものかどうかを調べたり聞いたりして、棒などを使って追い払うとか対応をとるときには、最初の拒否反応をとったときより恐怖は弱まり冷静になってきます。

こういう反応について乳幼児の場合はどうかというと、特に怖がらなかったり、平気で触わろうと したりします。このことは、動物が成長の過程において、自分の仲間や安全なものと、仲間でない外敵や異物とを 大雑把な特徴によって分類し、素早く判断する能力を学習していると考えることができます。

人の顔を見分ける場合などにも近いものがあり、毛穴の1つずつまで見ているわけではなく、全体の特徴のみを捉えて身内かそうでないかをすぐに判断することができます。

漢字に蜘蛛や蛇の怖さがあるかと言えば少し違いますが、たとえば “蜘蛛” と “クモ” と “くも” では見た目の印象が異なります。

ここで考えるべきは、文章の一部を太字で書く別の技法があることです。

「うちのにわにはにわにわとりがいる」

コンピュータの文書は必要があれば同じ文字種でも太さを変えて表現が可能で、これは強調や前後の文との区分のために用いられます。今のパソコンの入力で 会話同様にスピーディに太字を作るのは多少面倒ですが、大昔のタイプライターの時代には同じ文字を二度打ちするなどして同種の操作は簡単に可能で、古い時代からよく使われてきた技法です。

こういう 太字による装飾が行われたテキストと、漢字の使用には通じるものがあり、色の濃いその部分に対して文脈上の印象を強くする効果があります。

印刷技術の発展により、とくに広告やマンガなど、現代の日本人は無装飾な文字ではなく、加工された文字を日常的によく見ています。

そうしたものの影響もあって、文字の意味ではなく見た目、言うなれば文字の「顔」が読み手の認識に与える影響が強くなっている可能性が考えられます。

文字起こしのリスク

ニュースや対談記事などでは、通常発言者が口にした内容と、文字で記事にした内容は同じテキストです。

しかし口で発音する場合、声の強弱や高低によって自由な場所に力を込めたり、間を開けることができます。たとえば先のテキストは次のようにできます。

重症患者や重症化-リスクの特に高い方には、確実に入院して頂ける...

このようにカタカナの「リスク」と前のを他より強く認識させることができます。何らかの意図をもって抑揚をつけた発言を音声で聞いた場合、それをそのまま文字に書き起こして見た場合とでは、文字ごとの圧力が 読み上げた内容と乖離が生じるケースが考えられます。

近年の傾向としてはカタカナ語や英語表記の流通が非常に増えており、漢字造語があまり行われなくなっています。

たとえば “オリンピック” に “五輪” と新聞社が独自の日本語を造語する事もよくあったものですが、SDGs (Sustainable Development Goals : 持続可能な開発目標) なども そのままです。中国語の可持续发展目标(=可持続発展目標) などを参考にして略語を考えて たとえば “永展目標” とか “恒拓目標” とか書きようはありそうですが そうはしませんから、結果的に新語になればなるほど 文字としての重み が薄くなってきている面があります。

上の「リスク」は 英語のriskにあたるカタカナ語ですが、全角のカタカナは 間が開らいていて見た目に弱々しいです。半角カナの “リスク” は密度は高くなりますがあまり美しくなく、特に日本の紙の新聞では縦書きに使えませんから好んで用いられません。

このような制限を残したままで、圧力を一定にするなら、何らかの漢字熟語への置き換えが必要です。

リスクとは 危機に陥る可能性のことを指し、“高い” や “低い” と たいていセットで用いられます。「危機に陥る」は “陥る” だけでもだいたい意味は通じます。また “窮する” のように1字でにた状態を表す文字もあります。「高い」とは 統計的に頻出することを言いますから、「危機に陥る可能性が高い」は まとめて “頻窮” とか “頻陥” 、逆に「危機に陥るリスクが低い」は “寡窮” “僅陥” “微陥”などの書き方ができるかもしれません。

そうすると「重症化リスクの特に高い方」に中等症を含まれることを ほのめかす言い方にするなら、
「軽度・中等症での頻窮しうる患者」のような表現は あるかもしれません。

“頻窮” などという単語はありませんが、 どちらの字も中学校で習う常用漢字ですから、読んで意味を推測するのにはさほど困りはしないでしょう。加えて画数が多いので注意を引く力はカタカナの “リスク” より強くなります。

マークアップ・マークダウン

無駄に長いカタカナ語に対しては漢字の造語はうまく使うと便利ですが、むやみに造語を増やすと、日本語としては難しくなってしまうのであまり良くないかもしれません。けれども新しい単語が現れると、その意味を調べようという動きが起こります。“忖度” とか “斟酌” などの単語もほんの少し前に広まったものですから、日本人の持つ漢字探究心は侮れないので選択肢としてはありうるでしょう。

ただ、公的な文章としてはやはりできるだけ多くの人が特別な苦労なく意味を正しく理解できることが望ましいです。そのことを意識した場合、いかに簡単にカタカナ語やアルファベットや数字と漢字混じりの文「AlNum漢字カナ混じり文」 に対してアクセント等の調号を加えられるか入力と表記の工夫が求められます。

インターネットの世界ではHTMLという言語が使われていて、たとえば太字は 「ここは<b>太字</b>です」のようにして書くと「ここは太字です」のような装飾がかかるような仕組みがあります。HTMLの M は マークアップ (mark up) のことで、印をつけるという意味ですが、これはインターネットの基礎技術となっています。

しかし さすがに この表記をそのまま打つのは大変なので いくつかの代替手段があります。古いものでは Wiki記法なるものがあり、これは Wikipediaなどで用いられる簡易のマークアップがあり * とか _などの特殊文字で挟むとその部分が装飾できるようになっています。

2010年くらいにもなると マークアップの名前をモジってより簡単な記法のマークダウン(mark down) なるものが出てきて、これは特にコンピュータ関連の技術文書の作成で非常に広く使われています。

このような例から見て考えられることは、日本語における記号の扱いの標準仕様のようなものの広がりの鈍さです。

日本語では強調の意図としては主にカギカッコで  がよく使われますが、会話文を表す用途としても用いられるため紛らわしさがあります。

ほかに の引用符や、  のような太いカッコもあるのですが、どういう時に使用すべきかについてはローカルルールが林立しているように見えます。

【重要】とか【緊急】とか【締切間近】のようなメールやWebサイトのタイトルにありがちですが、太い黒を使って注意を引こうという意図は良く分かりますが、ややくどさがあります。

活用されていない文字のなかで、シンプルな強調としては *^ などは便利です。

たとえば 「リスクが高い」なら「*リスクが高い」などと発音で強く読む語の前に付けたり、「^ハイ・リスクな」などとして高く読むべきところをマークする事もできるでしょう。

すべての文章に 使うのは難しくとも、人の発言を文字に起こすときなどで、かつ太字や色付けによる強調ができない箇所ではそういう工夫はあってもいいでしょう。

日本語にはもともと 「さまをみろ(様を見ろ)」を「ザマをみろ」としてみたり「かねはらい(金払い)」を「かねっぱらい」としてみたり、濁音濁点促音などを利用して同じ単語にアクセントを取り込む工夫がされてきました。漢字でこれを区別するのは難しいですが、発音を示すカナの世界では比較的自由に記号の割り込みができます。( 漢字なら、フリガナの上でそれを使うことになるでしょう )

アルファベットの利用やカタカナ語が増えてきたのであれば、それに都合が良い表記法というものをそろそろ考えてみてもいい頃ではないでしょうか。

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