〜できます、〜できた の 形でのみ衝突する特殊な組み合わせです。
手段を表す助詞 “で”+ 動詞 “来ます” の組み合わせか、 “できます”(出来ます) 1語かの判別です。
“来ます” は 基本形では “くる”(来る) なので、連用形で「き」と読むときにのみ衝突します。
「注文は電話できました」
この話者は電話で何か注文した(発注した)のでしょうか、それとも電話で注文を受けた(受注した)のでしょうか?
全体的にあいまいな単語が並んでいますが、「電話」が動作とも道具とも解釈可能なうえに、「できました」の切れ目がわからないことで文まるごとが破綻しています。もちろん口頭に限らずテキスト入力の漢字変換でも「で来ました」と「出来ました」のどちらが出るかは運次第です。
「きのう話してた仕事の請求書って、メールできた?」
これはメールで見積書を受信したのか、見積書をメールで送信完了したのか、もしくはメールを作成したのか、どういう状態の確認なのでしょうか。
この問題は一般的な日本語表記に分かち書きがないことと、 “来る” の活用の進化の無さこそが本当の問題ですが、当面は “できる” の側で対策できることも あります。
純粋な “できます” あるいは 単純に “できる” は、「宅配 が できる」とか「お話 が できる」といった具合に、それ自体が (日本語国語の説明では) 単独の動詞です。
ここで前に付く名詞が 動作性名詞である場合に、助詞 が
を省いて「宅配できる」「お話できる」と1語にまとめることができます。「設計書が PCで作成 が できる人」などだと「設計書を PCで作成 の できる人」のように が
の連続を避けて の
や を
を使ったり 複雑な語順入れ替えが生じて面倒なことを考えれば 効率的な技法です。
これは あたかも「宅配する」という広義の動詞の活用形の一種であるかのような動きをします。古来の漢字熟語中心の日本語では “する” の前に付く単語に動作性を持つ文字が含まれていて、ここを見て 「(動作)+する」で説明が終わるところです。しかし近代的な日本語では「チェックする」「チャレンジする」「メールする」「LINEする」「アップする」など、動作的であると認知されうる【なんとなく動作性名詞っぽい語】に「する」を後置して前の語の 動作性を高めるという逆の誘導が働くようになっています。
現代的な “できる” は この “する” 同様に、前の語と結合して あたかも全体を可能動詞に品詞変化させるような 認知誘導性を持ち合わせており、単なる動詞とは性格が異なるものです。たとえばここで「アチョムバリッシュできる」という語を例にあげれば、「アチョムバリッシュ」を知らなくても きっと何かの動作なのだと想像させます。
代わりにもし「アチョムバリッシュな男性」「アチョムバリい男性」とかいうときっと形容的な何かに違いないと想像することでしょう。こういう機能は英語で a や the が現れると続く語は名詞に違いないと想像させる〈冠詞〉と似ていますが、日本語の国語の分類として 助詞・動詞・助動詞 のような分け方しか無いので 今の所どうしようもないです。
いっぽう「弁当ができる」「惑星ができる」のように あからさまな名詞が前に来る場合、この「できる」は 物が生み出された という意味になり、ハッキリと動詞です。 このケースでは “が” は省略できませんが、会話ではしばしば省略されます。
この “が” を必ず付けたにしても、動作および人の創作物そのものの両方の意味を持つ いくつかの単語では問題が生じます。たとえば「料理ができます」は 「料理の技術があります」と「料理品が完成します」の2つの解釈が可能です。
とくに先に挙げたような近代的な道具との組み合わせにおいて、顕著に混乱を起こします。英単語は単語そのものではなく位置関係で品詞が確定する単語が多数ありますが、カタカナ語になるとRとL、BとVなど同一扱いされるので ますます語源が あいまいになり、このような紛らわしさは今後さらに増えるでしょう。
可能動詞としての置き換えは、昭和後半や平成では「食べる」が「食べれる」と対応するように「〇〇ぇる」の形なら、少なくとも和語においてはそのまま 使えます。「料理できる」なら「料理(を)作れる」とすれば事は足ります。しかし「表現できる」のように近代的・抽象的な動作になると 適切な和語が見つけにくいことが多々あります。
“える” だけ持ってきて「表現える」では「表現得る」のようにも聞こえ、可能のニュアンスがすこし弱いです。しかしこのパターンは かつて 古語で「見ゆ」から「見える」、「得」から「得る」が生じたように、他の語の規則をまねて 無い音を生み出すことができます。たとえば「表現えれる」や「表現うぇる」のようなところが考えられます。
「表現する」の方から攻めて、「表現しえる」とする事も考えられます。ただこれは少しニュアンスが変わって「表現する場合がある」という確率の低い事象に聞こえる可能性があります。が、これは慣れと教育の問題もあるでしょう。たとえば「する」に 意思の助詞 “う” をつけるには「しよう」となるわけですが、これはカナ1字単位を音素とする旧式国語では “よう” までが助詞扱いですが、「しよう」を 「し」+「よう」ではなく sy+ou と分割すれば、「しょう」が正となりこれは口語と近づきます。「表現しぇる」から「表現せる」または「表現せれる」を可能形として新たに国語文法に加えればごく自然になっていくでしょう。
実際のところすでにいくつかの代替があり、その代表が「イケる」です。表記は現代風ですが言い回し自体は江戸時代からすでにあります。
これは場所以外のすべての単語に続けることができ、たとえば「お酒イケる?」と聞かれれば これは「お酒を飲むことはできますか?」の言い換えであり、「連絡イケる?」と来れば、これは「連絡することはできますか?」の言い換えです。最初の例なら「注文の連絡は電話イケました」とすれば、電話連絡を遂行したことを意味し、電話が来たという意味は排除されます。
また 「埒があかない」に残る「あく」、特に否定の「あかん」「あかない」は、これも江戸時代 井原西鶴のころに すでにある、物事の進展を意味する語です。直接的には 囲いが開いたり 場が開放される ことを指しますが、「連絡アカン」と言えば「連絡できない」の意味になります。疑問で「連絡アキますか?」といえば これは「連絡できますか?」ですが、「連絡しても良いですか」という、能力があること(capable)より許可があることや障壁の無いこと(may)のニュアンスを持ちます。
ただ「いける」にせよ「あく」にせよ、この単語原義の自立性や 動作具体性が強いため、認知誘導性は弱いです。もし「アチョムバリッシュいけますか?」と未知の単語に付けても、動作と認識されるとは限らず、場所や 食べ物を 想像するかもしれません。もちろんこれは架空の造語ですからわからなくて当然ですが、イメージはあやふやになります。「できる」より実用性が まだ低いということです。
他に文語表現として「なせる」という言い方があります。「○○の為せる業」という定型句として現われがちですが、「表現できる」は「表現なせる」と言っても意味は通ります。文語ゆえにカジュアルさがないのが弱点ですが、汎用性は高いです。
用途が限定されますが、「〇〇可能です」という言い換えもあります。これは前に来る語が特に漢字熟語かつ「できます」の現在を表すときに限って使用可能です。
たとえば「電話できます」を「電話可能です」と言うことはできても、「電話できた」を「電話可能だった」とはできません。この場合「電話完了した」とか「電話 が できた」への言い換えが必要です。
“できる” は “出来る” と漢字で書くことができますが、この “出る” は もともとは「いづる」とも読むことができ、“出雲”(いづも)とか “見出す”(みいだす) など いろいろな単語に名残があります。したがって「モノが出来る」という場合には 「モノが出で来る」と言うこともできます。表記上は送りがなを変えれば必然的にそうとしか読めなくなります。
言い換えとしては和語の場合「モノが 仕上がる」あたりが妥当なところでしょう。「おこる」「たつ」「わく」「にえる」「ととのう」「きまる」「そまる」「やける」「なる」「みのる」「はえる」など、対象物によっては使用できる動詞もありますが、人の制作物の完成を汎用的に言う場合「モノが生まれる」「モノが作られる」のようにして、受け身にしないと表現しづらいものがあります。