日本語に存在しないルールとして外国語で特に目立つものに、性数変化というものがあります。
大学等で第二外国語として英語では無い別の言語を履修したり、異なる国の知り合いなどがいないとなかなか知る機会がない規則ですが、広く世界的には多く存在するルールです。
日本人が一番知っているであろうルールとしては、たとえば英語の be動詞というものがあります。これは主語がIならam、youならare、第三者ならisという変形をします。
また三人称単数現在形(いわゆる三単現)なら動詞の末尾にsまたはesが付くというルールがあります。
これは人称と数による変化ですが、このもっと強力なルールが性数変化です。
男性名詞・女性名詞という言葉を知っているかもしれませんが、例えばイタリア語やフランス語・スペイン語などのラテン系の言語では、それにかかる形容詞にも性別(文法的性)が存在しています。
加えて、対象が複数かどうかでも変化を起こします。これは単数・複数形 (singular/plural form) として知られます。
賞賛の褒め言葉でよく知られるイタリア語の「bravo」(ブラボー)は対象によってbravo/brava/bravi/brave の 4つの変化形を持ちます。これはそれぞれ男性単数・女性単数・男性複数・女性複数にかかる変化形です。
このような変化は厄介なものですが、これがあるとその対象の語を省いても単にbrave(ブラヴェ)といえばそれは女性の集団や女性形名詞の物を賞賛しているであろうという推測ができます。
イタリア語で「sono Tarou」などと言えば 「太郎です」としか言っていませんが、「sono」が動詞essere(エッセレ)の一人称(私)を主語とする変化形であるので、わざわざ「私は」をつける必要がありません。
動詞は直ちに性を持ちませんが、過去分詞となり形容詞のような使われ方をするとき、それは性を持つようになります。
つまり「私は来ていた」という男女不明の中性的な言い方はちょうど、
「sono venuto」=「(僕は) 来ていた」と
「sono venuta」=「(あたしは) 来ていた」のような具合に変化します。
これらのような、主語に対してかかる動詞や形容詞の語形変化は、その規則に違いはあるにせよ、文を省略しやすくする効果があります。
とはいうものの、これらを使いこなすためにはその言語を深く使い続けてようやく身に付くもので、そのルールが無い、または異なる言語から入いった初学者にとっては覚える量が多く、面倒臭いという印象を与えるものです。
読み聴きの際に、省略されている語があると文型・構文が変わるためパターンが複雑になり、学習難易度が高くなります。
そのうえ紛らわしいことに、この性というのは必ずしも人間の性別と一致するわけでもなく、例えば月と太陽であるとか、ズッキーニとカボチャであるとか、人間以外のものにも話が及びます。ここに関係国の外来語や固有名詞が加わってきますから、実際には もっと複雑です。
語形の喪失
おなじルーツを持つ言語でありながら勢力が強いフランス語やドイツ語にも性数変化はあります。このあたりの言語ではどちらにも属さない中性名詞のようなものがあります。
英語ではこの区分け は極めて単純化されていて、Be動詞と三単現くらいに限られています。
世界共通語として最も勢力が強い英語において、男性系/女性形が無いのも、他の言語出身者にとっての学びやすさの一助になっている面があります。
さらに近年の傾向としてジェンダーフリー化の影響もあります。
歴史的に多くの国で性別によって身分が分けられていた関係で、一部の職種を表す単語は特定の性別と強い結びつきがありました。これが「差別的だ」との見方から、一種の言葉狩りの対象になりました。
日本人でも馴染みの深い言葉には、たとえば「スチュワーデス」あるいは「スチュワート」というような言葉がありますが、現代ではこれは性差を排除して「キャビンアテンダント(客室搭乗員)」というような表現が使われます。
「看護婦」が「看護師」となったり、「保母」が「保育士」となったりもしています。
こういう動きの元になった英語圏の変化で、 policeman(警官(男性)) は police officer とか、chairman(議長・会長)はchairpersonと言うような変化が起きてきていました。
こういう男女どちらかに単語が属することを嫌う考え方は、そっくりそのまま外来語としてその国の言語に侵入します。
これはちょうど日本語のカタカナ語のようなもので、他の言語に対しても文法的影響を及ぼします。
英語圏内でもこういう変化はさらに進んでいて、英文の主語で she(彼女)やhe(彼)という表現すら嫌って、they とすることも一部広がりつつあるようです。すなわち「 They is a student.」=「あの者は学生です。」という言い方になる訳です。
こうなるとThey が単数か複数形かは分かりませんから、それを明らかにするのに動詞のare/is のところに重きを置くようになります。She/Heの中に住んでいた”単数らしさ”が、述語の方に寄生するようになるわけです。
このようにして、ある単語が持っている意味づけの深さは、それと同時に用いられる別の語によって意味が深くなったり、反対に曖昧になったり、単語間で意味の移転が起こります。
述語の形の違いは、認識を早めるには便利な性質です。
例えば 英語の疑問文で Does か Do か、Is か Are か、どちらで始まるかで、会話しているお互いでない第三者の話をしようとしているかを、一言目だけで判断がつくという効果があります。
文章の最後まで聞かなければ 疑問文か そうでないかや、文の主語が なかなか判断が つかない日本語とは大きな差です。
とはいえ、別の言語から来た初学者からすれば、数で語形が変わるようなルールはいちいち面倒くさく、抜け落ちてしまうこともよくあることです。
このような文法上のルールは文書化され、教育を受ければ身につきますが、移住者には敷居が高く、年が経つにつれてお互いの文法認識が影響を与え変化を起こしていくことは十分考えられます。
日本語でのバインディング
日本語では文法的に主語が欠落しやすい傾向がありますが、この性数変化に代わり敬語によって主語推論が実現されてきていました。
「今から伺います」といえば、これは謙譲語なので主語は無条件に自分です。
「いらっしゃる」といえばこれは目上の人物ということになります。「おっしゃる」という言葉もそうです。
またあまりおおっぴらに解説されることは多くはありませんが、尊敬の逆に見下した言い方も あります。
典型的なのが「〜やがる」の形で、「言う」の場合は「言いやがる」となります。これは目下の者が反抗的な振る舞いをするケースとなります。元は「言い→ii」と「上がる→agaru」が合わさってiiyagaruとなったとみられます。他に直接的な卑語としては「ぬかす」「ほざく」というあります。
関西圏などではここに加え「おっしゃる」に似た「仰しハる」や「言わハる」という言い回しもあります。逆の方は「言いヨる」の形をとります。また「言いヤる」という形もあり、これは特に身内の者を指して使う弱いさげすみの言い回しのようです。
「〜ハる」も「〜ヨる」も「〜ヤる」も、動詞の連用形に続け(「〜ハる」は未然形も多い)、いずれも基本的に第三者を指して用います。これらは捉えようによってはこれは英語の三単現のsの役割を果たしているとも考えられます。
「〜ハる」に同等の共通語表現は「〜なさる」で、「見なさった」のような言い方をし、現在でも一般的な敬語表現の1つです。特に「見られた」というと 受け身型と混同するためこちらが好ましい状況もあります。
同様の考え方は他の国内各地の方言にもあるとみられ、「ゆうとる」「ゆっちょる」「いいとお」「いわさる」いろいろなヴァリエーションが聞かれるものの、教科書的に共通語以外の教育は消極的で 各個人の理解が不正確でよく分からない部分が多いですが、家族間や極めてローカルな関係下では便利な場合もあるでしょう。
また形容詞の場合は、「お〜〜です」「お〜〜ございます」型が用いられます。
「綺麗です」は「お綺麗です」、「立派です」は「ご立派です」だったり、「疲れている」は「お疲れでいらっしゃる」といった具合に、話し相手に対しては形容詞や形容動詞を格上げします。
自分の移動が早いことを「お早いです」などとは言いません。こうすることで、対象が誰に属しているかを主語を省いてでも示すことができます。
このように形は違っても日本語の中にも多様な語形変化があり、これらは海外とは違う文化的な背景が絡んでいると考えられます。
しかし、日本人にとって外国語のそれが示すように、主体によっていちいち語形が変わると言うのは学習するのが難しく面倒なものです。
文化的に 同じで あれば そこに適切な対訳が導けるのですが、無いものを 翻訳しようと すると どうしても不自然な言い回しか、なんらかの 意訳として補うしか方法がありません。
お味噌汁には「お」を付けるのに、ご飯には「ご」が付くと言う、この2つの音による意味の違いの説明をするようなものです。
この表現を無くすべきとは言いませんが、パターンをある程度統一したり、発音しやすいものにするなりの調整はあっても良いでしょう。
また同時にコンピュータでの入力に ついてもサポートされる必要があります。入力しづらい単語はメールなどの やりとりでは避けられます。ここで外れた言い回しは、今後将来は衰退を早める可能性が高いと考えられます。
別の言い方をすれば、文化的に価値があるとされるような表現技法については、音声でしか存在しないようなものでさえ、積極的にデータ化され、インターネットのような公共に検索される場所になるべく公開されていなければならないと言うことでもあります。
複数形の複雑
文法的性 は言語構造として どちらかといえば撤廃・省略の傾向が見られるのに対し、複数形に関しては尊重される傾向があると見られます。
まず世界共通語としての地位にある英語で 名詞の複数形は標準の文法であり、その概念が否定されることは考えにくいというのがあります。英語の複数形は不規則変化が多く覚えにくいですが、他言語からの英語学習者が 何にでも s
を末尾に付けるので少しずつ そのやり方が 標準を塗り替えつつあると見えます。
ヨーロッパ中心に多数の言語で普遍的なルールをもとに、規則性を重視して19世紀に考案された言語エスペラントにも、複数形は備わっています。
エスペラントで複数形の名詞は末尾にj
を付け、その形容詞には同じくj
を付けます(発音は「ィ」)。“Good Book” なら “Bona libro” ですが、 “Good Books” は “Bonaj libroj” となります。“Powerful features” なら “Povaj ecoj” となります。末尾がaj
の語は複数形にかかる形容詞、oj
なら複数形名詞で完全に規則的ですが、英語にも日本語にも無い区別で やや面倒です。しかし名詞が省かれて “Bonaj” だけでも対象が1つでないと分かる即効性があります。
会話で 複数形の規則 は一長一短ですが、記述では有用です。とくにプログラミング言語で使う機能(function)名や技術文書の類いで、対象の正確さが求められるテキストに取り入れれば効果的と思われます。
日本語では 生物に対しては “人々” “木々” “鳥たち” “犬ども”、あるいは短い単語は “山々” “日々” など複数形のようにできますが、それ以外に汎用的な複数形が無く うまく行きません。無生物に「たち」や「ども」は付けられませんし、熟語やカタカナ語では々
は使えません。
単語末尾に群
を付け “機器群” として も複数形らしき語を導入できなくはないですが 一般的ではありません (類
は “衣類” “書類” など必ずしも複数とは言えないし、等
では他の形質のものを含んでしまい適しません) 。唯一 数
を語頭に付けて “数人” “数センチ” “数チーム” とするのは 比較的広範に 使えますが、“数鉛筆” “数りんご” などと何にでも常に使いは しません。
形容詞にまで取り入れた例はほぼ無いですが、擬音語・擬態語に関しては例外と言えるかもしれません。雨粒が垂れるのに「ポタッと垂れる水」は おそらく一滴であり、「ポタポタ垂れる水」だと多数でしょう。風が「そよそよ吹く」なら何回かの風で、単数だと「そよっと吹く」とはあまり言いませんが「そっと吹く」あるいは「そよぐ」と単一の動詞化しているものがあると考えられます。「ざわざわ」ならおそらく 多数の人がいるでしょう。「ボロボロの服」は多数の汚れや傷があると予想されます。しかし これらは極めて感覚的で、厳密さを欠いています。
日本語にとって 複数形の問題は、翻訳の際には厄介な問題のひとつです。海外製品の説明書などを日本語に訳す際に、 複数形を完全に消すと 意味の一部が不正確になったり、残しすぎると逆に クドい表現になる場合があります。また反対に 日本語で書いた文書を他言語に機械的に翻訳した場合、本来複数形でなければならないようなところが 単数形になってしまう場合もあります。
いつでも常に複数形が無いと困るわけでも無いですが、多言語を念頭に入れた場合、日本語でも積極的に 複数形名詞を用いるような仕掛けをしていくと将来役立つ可能性があります。