敬語のリスク

敬語・丁寧語・謙譲語

一般に敬語と呼ばれるものは国語の上で尊敬語とするものの別名としての敬語と、丁寧語、謙譲語までを含む広義の敬語があります。

国語でいう敬語とは、目上の人物の行動を敬っていうものです。
「言う」を「おっしゃる」、「見る」を「ご覧になる」などと言い換えます。

反対に、目下の自分をその低い身分を強調して言う謙譲語というものもあります。「行く」を「伺う」または「参る」、「言う」を「申す」「申し上げる」のように置き換えします。

これらのような単語そのものの幹を置き換えるものとは別に、語形を変える方式もあります。

尊敬語なら「出かける」を「お出かけになる」、「話す」を「お話しになる」のように「お(動き)になる」の形にします。

謙譲語なら「仕える(つかえる)」を「お仕えする」、「伝える」を「お伝えする」といった具合に「お(動き)する」の形になります。

丁寧語はこれよりさらに単純で、「行く」を「行きます」、「見る」を「見ます」、「立派だ」は「立派です」、「綺麗だ」は「綺麗です」のように、末尾をですますにするだけです。

現代において敬語とは、最初に挙げた語幹の変化を伴うものよりも、後に挙げた動作を表す単語の前後の語形を変化させるものの方がパターンが明快で使い勝手が良く、習熟も簡単です。

その一方で「おっしゃる」型は歴史的な重みや格調を感じさせ、耳に心地よい響きがあります。

外来語と敬語

敬語を難しくしている要因の1つに、2000年前後の急速に進行したグローバル化の影響もあります。

漢字での熟語についてはそれが日本に伝わってから非常に長いこともあり、たとえば「お電話いたします」のように、近代以降にできた単語であっても違和感なく敬語にすることができます。

しかし連絡手段が多様化し、メールやLINEやSlackやHangoutなど名称に英語などをベースとしたものがたくさん普及しています。同じようにして「おLINEいたします」では うまく日本語と調和しません。むかしから “おビール” とか “おフランス” とか そのような言い回しも一部に ありますが、自然ではありません。

漢字でに あたる「お」や「ご」を つけるのは日本語独特で、「ご連絡ください」「ご注意ください」「お話しします」「お子様」「お客様」「御子息」「ご不便」「ご来店」などなど何にでも使えますが、外来語が混じると途端に扱いにくくなります。それに直接対応する適切なワードが見当たらないためです。

そのかわり、外国語の文章に良くあるのは「your」「his」「their」のような所有者を示す修飾語です。これらの単語は そのまま和訳すると「あなたの」「彼の」「彼らの」などと しつこく見えたりしますが、相手のものであるという一種の敬意を含んでいるように見えます。

ちょうど「私の席はどこですか?」とは言っても「私のお席は〜」とは言わず、他方で単に「お席はどこですか?」と言えば ほぼ自動的に相手の席を指すことになるのと似ています。要は、「お」が丁寧であるのと同時に物の所有者を指す性格があると言うことです。

他には相手の行動に対してはGood、Greatなど何らかの褒める形容詞をつけることもあります。「お疲れ様」「ご苦労様」を「Good Job」と訳すことがありますが、「お」「ご」「様」の存在が「Good」に対応すると言う具合です。

このあたりを踏まえれば、「おLINEする」は「わたくしめがLINEします」としたり、「おメールください」は「お手数ですがメール下さいませ」、「ごメッセージありがとうございます」なら「いつも迅速なメッセージをありがとうございます」のようにして、自分が動作主なら格を落としたり、相手の行動ならその負担をねぎらったり 賞賛を加えるなど別の形でケアをすれば良いと言うことになると考えられます。

しかし こう言うやり方は単に「お」を付けるのに比べると かなり複雑です。どのやり方が正しいか教科書もありませんから、受け止める側にしても、第三者が評価するにしても、敬語なのかどうなのか客観的判断するのは簡単ではありません。下手なことをすると かえって皮肉になったり 何が言いたいのかわからなくなったりする可能性もあります。

核家族化

現代の社会は、高度な科学技術が発達し、それを用いることで1人の人間が行える行動のバリエーションが大きく増えた社会です。

大昔には火を使うには焚き木や石炭を集めて来る必要があったものが、現代ではスイッチ1つで火をつけたり電子レンジで食品を温めることができます。

水を飲むのにわざわざ川に水汲みに行ったり井戸を掘る必要もありません。

この便利な技術は想定に反し、人々から共同生活の必要性を低下させました。

家庭内で 1人が しなければならないことが減り、1人で暮らしていても生活が充足するのです。

丈夫で機能的な住居が安く大量に作れるようになったと言うこともあります。

結果人々は、大家族での共同生活ではなく、小さな住宅に散らばって住むようになりました。

核家族とは、夫婦のみ、またはその子供を含むような最小単位の家庭を指します。

日本で核家族とは大正時代にはすでに半数はそうであったとされ、現代では6割から7割が核家族か、あるいはもっと人数の少ない世帯です。

加えて高齢で体が丈夫でない親も、宅配などサービスの充実や年金などの社会福祉政策により、子供が同居せずとも1人でも生活ができるようになりました。いわゆる独居老人です。

単なる核家族でなく上記のような単身世帯は、2017年の国勢調査でも すでに3割近くいます。

厚生労働省: 世帯構造別にみた世帯数の構成割合の年次推移
Trends in percent distribution of households by structure of household 1986-2016

このような家族構成の変化は、日本語にも大きな影響を もたらしたと考えられます。その最たるものが敬語です。

大家族の子供は、祖父母や兄弟という関係の中から、親が祖父母に、兄姉が さらにその兄姉にと、敬語を使って話す様子を見聞きし、生まれた時から敬語を学ぶ環境があります。

ところが現代の生活様式では、親が敬語を使う姿を子供が見る機会が多くありません。

また幼稚園や学校でも、ほとんどの場合は年齢ごとに別のクラスに分けられているため、年長者に敬語を使う姿というのは極めて限られた場面でしか見る機会がありません。

こういった環境では子供は上下関係を考えて適切に言葉を言い換えるような巧みな能力は獲得することは困難です。

特に「おっしゃる」型の不規則変化をする敬語については、学校の国語くらいでしか使う機会がなく、それを学ぶ学年を過ぎれば忘れてしまうこともあるでしょう。

分断

もちろん習い事やクラブ活動、地域のコミュニティに参加したり、宗教活動など年齢関係を超えた集まりの場へ、親が子供を連れて参加することで、敬語に子供を触れさせることは可能です。

しかし、これを行うには親の教育への関心度や、経済的な余裕度合に影響を受けます。

また一部地域の公立学校でも、学年分割の弊害を意識し、積極的に年齢を超えた交流を取り入れている地域もあるようですが、こういった取り組みがなされるのもまた その地域住民の教育への関心度などに依拠します。

結果、敬語能力には子供自身の知能とは別に、生まれた家庭の水準や地域で差がついてしまいます。

核家族化は家族間での第三者を含んだ会話の機会を減らし、テレビなどメディアに触れる割合を多くします。方言よりも標準語に触れる機会が多くなり、日本語の全国均一化を促すと言えますが、敬語に関してテレビなどから自然に得られる情報は多くなく、むしろ分断を促します。

この分断は、就職や その後の出世昇進にも影響をもたらします。

先輩や上司、顧客には、自分の親よりも年齢が上になる場合も少なくありません。年齢が高い世代ほど核家族や少子化による影響が小さく、敬語に対する感度が高く、気になる傾向が強くなります。

敬語の扱いが怪しい場合は無自覚的に気分を害してしまい、社会人として忌避される可能性があります。

当人に何ら悪意がないにも関わらず、です。

敬語は本当に必要なのか

このように現代においては、敬語を扱う能力の高さが 幼い時代の家庭環境の水準を測る物差しとして機能してしまう部分があります。

これはあるタイプの人々にとっては便利なのかもしれませんが、別のタイプの人にとってはガラスの天井として障害になります。

見方によっては差別的な機能を持っているとも言えます。

特に考えなければならないのは、グローバル化が進む現代において、申す伺うが へり下る表現で、目上の人物を主語とする文に使ってはならないとか、そういった日本語固有の単語の存在は全く役に立たないばかりか障害になってしまう点です。

海外製の製品を日本に仕入れる際には英語のマニュアルを日本語化するなどの翻訳が必要になったりしますが、「見てください」を「ご覧ください」に修正するのはいちいち手間がかかります。

敬語を使うことを学ぶのは日本語を学問として学ぶ上では特徴的で面白いですが、実用の観点ではお互いに無用なエネルギーを消耗しているようにも見えるのです。

気遣いは単語ではなく心から

人がコミュニケーションをとる上で、相手に対して敬意を払うことは重要なことです。ですが敬意を払うことは何も敬語を用いる以外にも やり方はあります。

英語で人と会った時には「Nice to meet you.」とか「I am glad to see you」などという言葉がありますが、ここに日本語の敬語のような難しい単語は1つもありません。

日本語でこれをやるとすれば、「遠くまで来ていただいてありがとうございます」とか、「お忙しいところ時間をいただいてすみません」などちょっとした感謝を表す言葉があります。

こういった感謝の意を表す言葉は、上下関係を無視して使うことができます。友達同士で会ったとしても言えるはずです。

難しい単語を覚えるよりも 言語や上下関係にかかわらず有効な気配りの言葉というものがもっとあるのではないでしょうか。

社会構造の変化に対応する

どこからどこまでが謙譲語なのかを正しく認識するのはとても難しいことです。

なにしろ桃太郎がイヌにキビダンゴを「やりましょう」なのか「あげましょう」なのかがクイズになるような時代です。上司が部下に対して仕事を依頼するにも「〜〜して下さい」というくらいです。

昔であればどんな組織も年功序列が基本でしたが、外資の新興企業などを中心に若いリーダーが指揮する企業が勢力を強め、古い企業から転職・転籍した年配の社員を部下に持つケースも少なくありません。

また年金等の制度変更により、リタイアした世代が再雇用によって嘱託やアルバイトとして雇われるようなパターンもあります。

こうなってくると年齢の上下と社会的な上下関係が不一致を起こします。

しかしその一方で年配者は相手が若いと、偉そうに指示されることは嫌う傾向があります。

そう言った状況だと、仮にそれが部下や役職の低い者だったり、一旦上下関係は脇に置いて、極端な謙譲語ではなく やや丁寧なくらいの穏やかな日本語を使うぐらいがお互いにストレスなく事を進められるバランスになります。

これはお客様と従業員のような関係だったとしてもありえる話で、ファーストフード店などで大変高齢のアルバイトを相手に若い客が入るようなこともあります。

飲食店が ありふれている環境で店員が威張って接客するようなことはなく、スマイルで丁寧な言葉使いでサービスをすることがマニュアルというものです。しかしこれが気持ちが良いかどうかというと、必ずしも誰もが認めるかどうか確かではありません。

そのほか男女の労働環境の問題もあります。

日本は女性の社会進出が少ない国ですが、近年徐々に増えつつあります。

とは言えまだ一般に役職者としての女性の割合は多くありません。そのせいもあってか、女性がうまく男性の部下に指示を出し、また適切に報告を得るには、ある種のテクニックが必要です。

すなわち性別を認識させないよう、対面口頭ではなく書面やマニュアル化、テキストでの指示を積極的に活用することや、「〇〇ちゃん」のような性別を区別した言い回しを避けることです。それと同時に、やたら上下関係を際立たせる敬語表現を組織内で使用しないことです。

男尊女卑の思想を持つ男性に対して女性が偉そうに指示を出すと、男性はあまり良い反応をしません。それは間違った態度ですが、態度を正すことに時間をかけたり、無用な反発を招いて相手のやる気を損なえば、成果を出すという目的においてはマイナスの結果になるだけです。

その結果 相手が悪いにも関わらず、チームとしての成果を出せず、それが巡り巡って自分の評価を落とすことになり、ひいては「女性のリーダーにすると良く無い」という誤った認識を広めることになります。

普段から自分が敬語を使うことに神経をとがらせていると、周囲が不適切な敬語を使うことに対しても気になるようになります。

しかし同じ神経を使うのであれば、どの相手に対してもストレスのない表現が何かを考える方が効率的であると言えます。

具体的に書いた方がわかりやすいかもしれません。

次の表現は何かを送って(送付して)もらう際に使うことのできる表現ですが、誰にも不快感を与えず、かつ自分が極端に下にならない(距離を取り過ぎない)言い回しはどれでしょうか。

  • 送りなさい
  • 送りたまえ
  • お送り下さい
  • お送りくださいませ
  • 送ってくれ
  • 送ってよ
  • 送って下さい
  • 送ってちょうだい
  • 送付せよ
  • 送付願います
  • 送付をお願いします
  • 送付よろしく
  • 送付ください
  • 送付いただきたい
  • ご送付ください
  • 手順: 1:申込書に記入、 2:…、3:〇〇へ送る

上の書き方で「おくる」という言葉は訓読みの日本語・大和言葉で、敬語の有無が目立つ単語です。「送付」という熟語を使うと敬語感がやや分かりにくくなります。「下さい」を「ください」と ひらがなにすると、上下関係が目立たなくなります。

「お願いします」は文型は謙譲語ですが非常に一般的によく使われるので何を依頼する際のポピュラーな言い回しで、もはや敬語の意味合いは かなり薄いですが、認識に差のある言い回しでしょう。

最後の例などは口頭では使えませんが、パンフレットや行政手続きの手順書などにはよくある記述です。ここでは人に対して指示する単語を消し去り、本人の作業内容に立場を入れ替え、上下関係を完全に排除しています。

人に何か伝えるにしても、今は昔と違って様々なツールがあります。

文書を入力してキレイな文字で印刷するのもコンピュータで簡単に多量に行えます。紙がモッタイないならメールなども使えます。

これは直接的な日本語の問題とは違いますが、敬語が難しいのなら、場面に応じてそれを必要としない使用する道具を用いるように考え直すというのも方法の1つです。

主語の明確化

敬語の見落とされがちな観点の1つに、文の主語を明確にする機能があります。

「処分せよとおっしゃったので、その通りにいたしました。」

上のような文章は主語が存在しない、いかにも日本語らしい言い回しですが、「おっしゃった」という単語は尊敬語であることから暗黙的に目上の者の行為を示しており、「いたしました」は謙譲語のため、目下である自分の行動であることを示しています。

敬語を取り除いた場合、動作にかかる主体の部分が怪しくなります。

「処分しろと言ったので、その通りにしました。」

思わず「誰が?」と聞きたくなるような文です。そこでそれを補うと次のようになります。

「先輩が処分しろと言ったので、私はその通りにしました。」

元の文から見ると文の長さには さほど差はありませんが、やや回りくどさはあります。しかし正確さという観点で言えば、敬語に頼るよりもこちらの方が効果的です。

世界共通語として最も勢力の強い英語では、基本的に主語の省略はできません。性数変化がほとんど無く、そもそも文のどの位置に来るかで単語の格が変化する言語のために、主語省略は不可能であるという理由もありますが、誤解を避けるには好ましい性質と言えます。

仮に外国語のやり方を無視したにしても、公的な性質を持つ場面であればあるほど下手な省略は控えた方が無難です。

敬語を文に使用しないということは、単に手を抜くことを可能にするのではなく、その動作における主語をはっきりさせることの重要性を増す点は忘れないようにしないといけません。