まず “胎児” は 一般的な普通名詞ですが、“退治” や “対峙” のように「タイジする」 と言うことは ありません。「タイジがいる」「タイジである」のような言い方も それぞれあまりしないので これと直接 衝突することは ほぼ無いでしょう。
“胎児” が 混乱を起こす可能性があるとすれば “大事” で、これは「ダイジ」または「おおごと」と読むべきところを “大切”(タイセツ)などの読みにつられ、「大事には至らなかった」「大事には影響なかった」のような文を 音声で聞くと まれに勘違いされうるという程度です。
“胎児” が ほかの「タイジ」と 同じ文に現れることは ほとんど無いため 対処の必要性は薄いですが、読み替えの可能性としては “小児科”(ショウニカ) などで児
に「ニ」の読みがあるので「タイニ」としたり、または「母胎内の児(ボタイナイのコ)」などと言い換えることはできます。日常的には もっと平易に「おなかの赤ちゃん」などと呼ばれたりもします。胎
は訓読で「みごもる」「はらむ」などとも読まれるので、ここから「はらのこ」「はらめご」などと読んでも通じはするでしょう。
“退治” と “対峙” については どちらも動詞として「タイジする」と言えるので ときどき誤変換は起こり得ます。
これら二語は 対格の取り方が少し異なり、基本的には「AがBを退治する」「AがBと対峙する」という形になるのが一般的です。「AがBをCと退治する」の形はありえますが、「AがBを、Cと共に退治する」か「CとAが、Bを退治する」となるほうが多く、助詞と
が 使われるのは もっぱら “対峙” のほうです。これは “対峙” が 何か2つの事物が 対立、並列する状況を主語に取る単語であるからと言えます。ときどきに
が使われるときもあります。
よって 前に現れる文の主語が2つ以上の人物であるか、“を” があれば およそは推論が可能と言えます。主語が省略されたり、あいまいに「アイツは いつかタイジすることになるだろう」のような表現がされると、どちらかに確定はできなくなります。この種の衝突は 音の調整の他に、文法的な規則調整でも対応できるかもしれません。
“退治” という単語が良くないのは、治
という字が含まれていることからも想像されるように、その対象が何か 有害悪徳なものであると属性付けることです。“対峙” の場合は<対してそびえ立つ>という意味なので、両者に善悪の区別はありません。このため「対峙する」を誤まって「退治する」としてしまうと、その対象を悪人だと主張することになってしまいます。状況によっては 誤変換が地雷になりうる 関係にあります。
治
の字は漢音読みで「チ」の読みがあり、“退治” はそのまま「タイチ」としても良さそうです。しかし “対地” や “対置” というあまり使われないながらも別の語があり、これらと対立します。代案としては中国普通話を頼って「ツィー」(zhi4) のようになので、ここからとって「ツィ」で代用するか、「ジ」の方に近づけて濁音で「ヂ」とするか、どちらかの表記は使えそうですが、発音としてはほぼ変わらないことになります。
治
は台
を含みますが、これは「タイ」「ダイ」と読まれるので違う音と認識されるので合わせる必要はないですが、しかし「チ」とほぼ音の差が認識できない「ツィ」などと書くくらいなら「ティ」や「ディ」にして 台
の読みに近づけても良いかもしれません。
峙
は「ジ」の他に「チ」とも読めますが、治
と重なっていて同じく 地
や置
と混同する のでこれで回避するのはあまり良くありません。訓読は「そびえる」「そばだつ」になり 長くて使えません。また この字は寺
を含みますが、持
待
侍
時
痔
の同音の形声字があり、これらと音が異なると 覚えにくくなる可能性があります。ここで、痔
だけは 仮名でぢ
と表記されることがあるのですが、他の寺
ファミリーも 古い例では「ぢ」と表記することがあります。漢字変換の問題だけであれば「タイヂ」とするのも有効でしょう。
対
(對
/对
) と 退
で分ける方法だと、対
は「ツイ」とも読めるのでこれを使うこともできます。中国普通話を頼るなら、 对
は dui、退
は tui になっているので 有気音・無気音の差はありますが、日本語でこれを聞き・話し分けるのは難しいです。ただし拼音がそのまま英語読みされる場合は「デュイ」と「トゥイ」のようになるので、これは日本人でも聞き分けられるだろうと言えます。
“退治する” に関して言えば、訓読みで “退く” を「のく」またはナマって「どく」とも読むので、文脈が許せば “退け治す” と書くこともできるかもしれません。