“火事” “家事” “舵” “梶” “鍛冶” は、すべて名詞ですが、単語の成り立ち方がそれぞれバラバラです。
“火事” と “家事” は「カ」と「ジ」の音読みの組み合わせから成ります。“舵”と “梶” は どちらも訓読みの1語です。“鍛冶”は「金打」から来た半分 当て字で、読みに大した正統性はありません。
「家に帰って 鍛冶 をする」とかそういうことはまず文脈的に考えられないですが、「カジが忙しい」とか「カジを優先する」、「カジに追われる」あたりの表現だと “家事”・“舵”・“火事” のどれが正しいかは必ずしも自明ではありませんから、音を変えておくことは有効でしょう。
鍛冶
まずこの中で最初に 対処可能なのは “鍛冶” でしょう。この語は 中世近代を舞台とするドラマやファンタジーの世界で “刀鍛冶” とか “鍛冶屋” など特定の複合語で現れる傾向がありますが、日常的に使われることはマレです。
この鍛
の字は 音読みでは「タン」、訓読みでは「きたえる」しかありません。訓読を大切にしたいなら鍛
を単独で「かねう(つ)」という読みを与えれば “刀鍛ち” のような より簡単な表示が可能です。
紛らわしいのことに “鍛冶” の冶
の偏は氵
(サンズイ)ではなく冫
(ニスイ)で、治
の字とはよく似ていますが違います。冶
の字は音読みでは「ヤ」と読まれ、「ジ」の読みはありません。この字 単独で 金属や鉱物を 溶かす意味を持ちます。
もし訓読よりも漢字由来の音が重要なら、“鍛冶” は「タンヤ」と読むのが妥当です。しかし冶
は会意字であるうえに熟語も少なく「ヤ」と読むことが あまり一般的ではありません。この部の台
の部分は、成立過程により解釈が複数あり、下の口
の部分を人間の くち を表しているとする場合と、容
など 物を入れる場所 や 箱のようなもの を表しているとする場合があるためです。金属の加工に人間の口は関係ないですから、その意味では「溶かす」の溶
と近い冫
+容
のような字形に組み替えてしまったほうが、「ヤ」の読みが認識しやすくなるかもしれません。
鍛
の字は 中国普通話では「トゥァン」(duan4) のようになり、またこの拼音をそのまま英語読みすると濁音化して「デュァン」と読まれます。段
の字の音を借りた形声字でもあるので、もし音を動かすなら関連を考慮する必要があります。下手な読み変更は避けたほうが良いですが、この普通話での対応は共通しているので許容できる可能性があります。これにより あまり使われませんが “短夜” のような語との衝突を避けられます。
梶・舵
梶
・舵
は 船の進行方向を操作するの道具の総称です。実際に船を操作する人は 多くはないですが、小さくは会社や 大きくは国のようなものまで、たくさんの人が同時に同じ方向に進むものを操ることを たとえて広く「かじをとる」「かじをきる」の語が成句として使われます。
この「かじ」とは、万葉集の8世紀ごろからすでに現れていて かなり歴史の古い単語です。このころの仮名遣いでは「かぢ」と表されます。江戸時代にはポルトガル語辞典で Cagi と記載され、この頃にはすでに「かじ」の発音であったとされます。
舵
はその字の構成を見ても明らかなように、船尾に取り付けられて方向を操る目的にのみ使う器具を指します。ふつう「かじをきる」の “かじ” と言えば この字です。
梶
のほうは カジノキ という樹木の名称も指しており、これを 方向を操作するものとして使うのは最適とは言えません。こちらの字はときどき船を前に進めるための櫂
(かい)の意味で 使われる場合もあるようです。漢字検定準1級の常用漢字外の字ですが、人名や地名に広く登場するので 人によっては馴染みの文字でしょう。そのあたりから こちらの字を好んで使う人もいるかも知れませんが 語義が曖昧になるので 避けたほうが無難です。
似た例で、「クスノキ」は “楠木” と書くこともありますが “楠” と1字で書く場合もあります。梶
についても 1字で「カジノキ」と読むことに訓読を調整すればそのあたりは整合的になります。「○○の木」は2語のようにも解釈できるのでその「カジギ」として連結してしまう方法もあるでしょう。あるいは「木かじ」と 頭に付ける方法もあるでしょう。
舵
を他の “火事” や “家事” と区別する目的では、もっとも簡単なのは「ふねかじ」や「ほうこうかじ(方向舵)」と言い換えることでしょう。 ややこしいことに「ふなかじ」だと “船火事” になってしまうのでこの言い方は使えません。
ただ “方向舵” というのは長いですから、これを短く「へかじ」とするなども一案です。「へ」は “行方”(ゆくへ)や “往にし方”(いにしへ) のように 方向を表す古典的な音です。
家事・火事
“家事” と “火事” は 音読みの「カ」と「ジ」の組み合わせですが事
の部分が共通していますから、「カ」の方を読み分けるのが適当でしょう。
家
には 漢音「カ」の他に 呉音読み「ケ」があり、これを使って「ケジ」とすれば字数も少なくシンプルです。
ほかに 訓読みで「いえ」「や」の読みがあるので そのまま訓読みで「いえごと」「やごと」とする方法もあります。他に常用漢字訓外で「うち」「ち」の読みもあり「うちごと」「ちごと」とも言えるかもしれません。
「ち」は “あたしンち” のように語末に家
が来るときによく使われ、語頭に立つことはないのですが、“仕事”(しごと)との対比で 「家事と仕事の両立」 とみたいな言い回しは 日本語としては 自然です。
火
については 音読みでは「カ」の読みしかありませんが、これは古典的には合拗音の「クヮ」がもとにあったとされます。したがって正統性と入力しやすさの観点ではこの読みが適しています。ローマ字入力では kwa か qa と入力して出せるよう設定すれば困らないということになります。さいわい「クヮ」は ひらがなの「くゎ」が入力できるので 単語登録が可能です。
火
は訓読みでは「ひ」と読みますが、これを使って「ひじ」などとすることも考えられますが、これだと “肘”(ひじ) と重なるので使えません。かわりに濁点を使って「び」とすることも1つの手です。
火
の場合、“下火”(したび)、“種火”(たねび)、“不審火”(ふしんび) などのように後ろに来ると連濁が生じますが、語頭ではふつうそうはなりません。しかし“不思議”(フシギ) の「フ」が、“不気味”(ブキミ) や “不粋”(ブスイ) で「ブ」に変化するように、忌避されるものに対してはその意識を音に乗せて濁音化することが多々あります。
“火事” が 起きてはならない危険なものであるとの認識を表現するなら「ガジ」あるいは「びこと」というような 語頭から濁音を用いた形とすることも一考の余地があるでしょう。