“いける” は “いく” という動詞から生じた可能動詞で「いくことができる」と同義です。昭和的日本語解釈では「いかれる」が適切とされますが、これは受け身と紛らわしいため “行き得る” に近い「いける」が2000年以降では主流です。
「これからそちらに先生が行かれるとのことです」のような言い回しに、日本語流の主語や補語の省略を重ね、そこに外国語の受け身の概念が日本語解釈に導入された結果、尊敬の「行かれる」に受け身の意味が重なりました。「優れた能力がある」という意味では 尊敬も可能も同縁の語ですが、主語を省きたがる日本語では 語形変化した「いける」が短く使えて便利なのでしょう。
カタカナ語の “イケる” は 物事が「上手く行く」からの派生語で、「行くことができる」を縮めた “行ける” に、目標達成可能である、問題無い、優れている などの肯定的な意味合いが含まれます。“デキる” とも似ていますが これはニキビなどの腫れ物ができたり 妊娠するなどの意味も含まれるため イケる の方が誤解がなく便利です。
しかし口語では便利な「イケる」も、漢字変換の手にかかれば急速に不便になります。
通常の “行ける” に加えて「花を生ける
」とか 「生きとし生ける者
」などに使う “生ける” と ぶつかり ます。
これは “行く” の字を「いく」としたのが問題で、昔から使われる「ゆく」を用いるのが最も簡単で、 “行ける” は「ゆける」とすれば良いことになります。生
は “生島”(いくしま)・“生田”(いくた) などの人名地名が残るように、“生く”(いく)と読む例はありますが、「ゆく」とは読まれないからです。
「ゆく」をローマ字にすると yuku
となりますが、ここで 最初の u
が抜けると yku
となり、これをカナで書いた結果が “ゆく”・“いく” の表記揺れの正体とも言えそうです、ここから見出せるのが yiku
としたらどうかという見方です。
明治大正昭和平成の五十音にはヤ行のイ列はありませんが、カタカナではユィ
、ローマ字ではyi
で書くことができます。オとヲが同音でありながら異なる字が認められるなら、イ
あるいは𛀆
(以
の変体仮名)が用いられても良いでしょう。
“生ける” に ついては 自動詞 “生きる”(いきる) に対し、何らかの生物(せいぶつ)の その生命力を維持あるいは表現することを言う他動詞です。
“生きる” との対比上 「い」の音を下手にこちらだけ動かすと語義かわかりにくくなります。もし動かすなら合わせて対処する必要があります。
ここで 生
の字の他の読みを観察すると、“生毛”(うぶげ) や “生まれる”(うまれる) のように「う」多く用いられていることがわかります。
したがって その音の連関を考えると 「う」と「い」の中間の「うぃ」の存在が浮かび上がります。つまり「うぃける」です。
いまでこそ廃れてはいますが 古語においては うぃ/ウィは 一級の音で、 ゐ
/ヰ
の ひらがなと カタカナの両方でワ行のイ列として残っています。
「生きる」に関して「ウィ」を使うと 「wikiる」 のように聞こえて、まるで wikipediaで何か調べるかのようなニュアンスが感じられますが、ここでは人名に現れる “生”(いく) とする例に倣って “生きる”(ゐきる) ではなく“生く”(ゐく)とするとそこでの衝突は逃れることができます。
“活ける” は “生ける” と基本的には同じ物で、「生きとし生ける者」のような古語の例を除いては どちらでも通じます。(現代語で「生ける者」の意義には「生かされている者」とできます)
特に氵
(さんずい)がついているので “活造り”(いけづくり・いきづくり)のように海産物に対して好んで用いられます。(ちなみに「造り」は刺身のことを言う方言)
この活
の字を用いるのは その業界に いなければ使う必要はありません。“生活” の 活
でもあるので 音読みでそのまま 「活する」とすることでも代用できます。