文脈的認知

略字略語というものを考える際に重要な考え方の1つに文脈的認知というものがあります。

たとえば同じ縦線1本で表現される文字で、1 I l があり、それぞれ 数字のイチ・英字大文字のアイ(i)・英字小文字のエル(L)です。このパッと見では同じ形をしているものを、素早く見分ける鍵となるのが文章の前後関係すなわち文脈(context:コンテキスト)というものです。

日本語で言うと 後ろにとかとかmgのような単位があったり、のような記号が前置されていると、自然にそれが数字であると言うカンが働くようになります。

しかし上記のようなカンが働くのは、あくまでその文脈を共有している相手との間のことであって、その共有がない相手に対しては同じようには伝わりません。反対に、違う文脈を持った相手には 同じ情報が 違う情報に 見えることがあります。

たとえばが数の単位であることを知っていると “ l 個” は “一個” と同じように理解されると言うことです。ここでこの“ l 個”はL+なのですが、エルではなく数字の(イチ)に無意識に誘導されます。

カタカナのと平仮名のは全く違う文字ですが、形はとても似ています。や、などもそうです。こういったカタカナと平仮名の乖離も、文をやり取りする相互で文脈が共有されていないと、違う文字であるかのような勘違いを起こしたり、解読に時間がかかる原因になります。

戦後の漢字教育から進んだ常用漢字の中に、あまり適切とは言えない略字形が普及した例があります。

例えばの略での仲間で「フツ」と読みますが、そのの部はの字にも含まれ これらは「シ」という異なる読みを持ちます。同時にのなかにもありますが、の旧字体はでありの仲間で「コウ」と読みます。つまり同じ形をしながら意味するところも音も異なっています。

このように意味が違うのに同じ形になるような省略が行われたのは、もとはそれぞれに違う分野で用いられていたものであり、互いに 文脈を共有していない世界の漢字を 短期間で 無理に まとめたというところに 原因があると考えられます。という字を使わない世界にいれば、その略字が どうであれ存在を無視することができますし、おかしいとも思いません。

また古くから漢字字典では 漢字ののうちの いずれか1つを部首という「首」に定めていて これを もとにして字書をひくことになっています。であれば(にんべん)が それに当たります。のほうまで字書に加えれば 紙ベースでは ページ数が膨れ上がってしまいますから、いずれか1つを定めるのは当時は仕方が無かったと言えますが、の意味が無茶苦茶になってしまっていることに気づくのには大きな障害となったと考えられます。

の字が例えば “仏教” となればの字がヒントになって 前の字の意味を補強します。これによりの部分が曖昧あいまいでも それが何か 信教に関するものであることがカンが働きます。これが “仏閣” だと どうでしょう。漢字に比べると一般人の生活とは遠いもので、補強の効果は減退します。

近代化が進むにつれて、人々が得られる情報は早く多量に なりました。同時にそれぞれの学問の分野は発展し、基礎知識から頂点に届くまでの距離は長くなっています。しかし人間そのものの脳の大きさは変わってはおらず、1日に記憶できる勉強量には昔も今も大して変わってはいません。

このことは、お互いの分野に属する者どうしの、文脈の共有が難しくなっているとも考えられます。

漢字に関する常用漢字外の深い知識を得ようとするよりも前に、英語圏や中東や南アジアの別の言語や、科学や別の分野の知識を専門とすることもあるでしょう。

漢字の熟語にしても、新字体が生まれた当初から時代が流れ、もはや元の旧字体など知らない人も多いでしょう。そうなると“略”とはいったい何の略なのか分からないと言うことです。

今 漢字の世界は 難しい漢字も簡単に変換で入力したり、意味を調べることも可能になっています。手書きで書きやすい画数を優先して意味が怪しい略字体を用いても将来的なメリットは乏しいと考えられます。

略字体がなくても 昔の人は私的なメモには自分流の草書体を用いて勝手に略字体を作っていたのですし、現代であればカナからの変換効率を高めるほうが入力は速いのです。