形容詞い詞

何かの物事について、その色形や性質を説明する単語を 形容詞と呼びます。英語では直接的には adjective となります。

日本語と 他の言語とでは根本の文化に違いがあり、日本語で形容詞に属する語を翻訳しても そのままズバリ一致する形容詞がみつからないことは良くあります。逆に多言語で形容詞に当たる語が日本語では他の品詞になることも良くあります。

英語の “different” はadjective (形容詞)でも それに当たる日本語で “違う” や “異なる” は動詞に属します。「違う意見」、「異なる方法」などの形で 名詞にかかるこのタイプの用法は、動詞の連体形と呼ばれる形で、これらも含めて広く物事を説明する言い回しを一括して 修飾語 と呼びます。

修飾語はさらに “僕の” “私の” “我が” のような 名詞+助詞 の形のものや、それらが結合してできた “あの” “その” のような 連体詞と呼ばれるものもあります。

また “健康な”、“おおらかな”、“アグレッシヴな”、のように「〜なり」「〜たり」と接続してできた 形容動詞というタイプもあります。

国語での形容詞は、古語において「うつくしき」「あかき」、「くらし」「よし」の “〜し”・”〜しき” の語形を持っていた語です。いっぽう形容動詞は「明らかナリ」「錚々そうそうタル」のような 様体を表す名詞の後ろに “ナリ” “タリ” を付けて、動詞と似た活用形をとることからこのような呼び方をします。

しかし現代の特に平成以降の日本人は、ナリもタリも使いません。この分類を学ぶことは 半分 古語を学んでいるに近いところがあります。

どの立場から考えるかにもよりますが 連体詞も 形容動詞も おおざっぱに見れば 同じような機能を持ち、現代的な普通の日本語話者にしてみれば さしづめ「形容詞い詞」とでも言ったところでしょう。

品詞というものは 特定の言語に固有の分類であるものの、互いに他の言語のもつ概念の影響をうけるので 完全に無視は できません。また あまりにも独自路線を進みすぎれば 母語の異なる学習者のハードルを高くするばかりです。

日本では英語が義務教育課程に組み込まれていますし、日常的にも多くの外来語を目にしますから 差が大きければ大きいほど国内の学生にも複数の概念に混乱し、負担が生じます。そう考えた場合、今ある国語の分類が恒久的なベストだとも言えません。

ナ形容詞・イ形容詞

他の言語でいう「形容詞 (adjective)」は、日本語の「形容詞」とは 単語の 概念が 違っていて、どちらかと言えば 修飾語に近い考え方を持っていると言えます。

来日外国人や帰国子女のような 母語が日本語でない人を対象とする “第二言語としての日本語教育” の世界では、日本人向け国語教育とは異なり、形容詞をイ形容詞・ナ形容詞 (i-adjective/na-adjective) の2つに分類します。

イ形容詞美しい 楽しい 明るい
赤い 黄色い 暗い 長い 良い 重い
薄気味悪い 目まぐるしい 荒々しい 厚かましい
ダサい ヤバい セコい キモい カワイい キレい
チョロい 煙い(ケムい)  面倒い(メンドい) みすぼらしい
バカっぽい セレブみたい みみっちい
ナ形容詞綺麗な 楽な 明らかな
真っ赤な 陰険な 冗長な ベターな ヘビーな
不気味な 目立ちたがりな サラサラな べらぼうな
大言壮語な 荒唐無稽な 支離滅裂な 滅茶苦茶な
イモな イノベーティブな プアな ボリューミィな
アリな ナシな マシな エコな 好きな
日本的な アタシ的な 俺的な
馬鹿な セレブみたいな 乙女チックな

イ形容詞/ナ形容詞の分類は単純に語幹となる部分に、「い」と「な」のどちらを語尾に持つかという分類で、元来のそれぞれの品詞の歴史的な成立過程は無視しています。

つまり 形容動詞も形容詞も連体詞も、名詞を直接修飾したり、または述語として文末に来て物事の性質を言うような語はすべて形容詞であるということです。その立場から見ると、日本の通称_学校文法_的な「形容詞」は 用語としては 極めて狭い意味しかないように見えます。

上記の例では その言葉が使われるようになる時代の技法にハヤりのようなものが見えます。まづ ナ形容詞は 〇〇ナリの変化形であり、この用法は江戸時代に確立したとも言われますが、文字や紙や印刷技術が 僧や貴族や役人のものから 大衆へ広まり、文書表現が飛躍的に増えたこととも関連すると考えられます。

このナ形容詞は 何らかの具体的な特徴を持つものごとであれば、日本語に限らず様々な単語に接することができます。非常に柔軟で使いやすく、特に近年ではインターネットから取り入れられる英語など世界の言葉を吸収して、純粋な日本語をはるかに上回る速さで 日々 増殖し続けています。

いっぽう イ形容詞は ナの方よりも数は少なめです。非常に古く、万葉集などにも現れる倭語が主です。カタカナ語で いくらか比較的新しい語がありますが、何かの複合語・長い英語・擬態語・形容動詞の 略語が 多くを占めています。

他に たまたま 語尾がイで終わる別の語の 誤用から生じた語がいくつかあります。
これは特に否定形で顕著で、「キレくない」とか「芸能人ミタくない?」みたいな 使われ方がされます。“キレイな” は “綺麗な”、“ミタイな” は “見たような” の転訛(yo→y)で いづれにせよ ナ形容詞ですが、末尾が「イ」と発音することから イ形容詞と ときどき誤認されます。

上のような誤用らしき例を除き、他の特に古い語には、始原的な倭語に通じていて また違う特徴があります。

たとえば “赤い” などは、“赤” 単独で名詞として使用可能です。これは 白 でも 黒 でも 色を表す語には全て使用できます。また面白いことに “真っ赤な” “真っ黒な” のように、“ま” が頭に付くと形容動詞に化けます。

これら語の登場は極めて古いものでもあります。“赤”は “明るい” ”明ける” “秋” “焼く” などとも語源が通じるとされます。“黒”も“暗い” “暮れ” “眩む” “狂う” など類語性がみられ、日本語の先祖の面影 を残す単語でもあります。

日本語の文字表記の成立以前からあるであろうこのような語は、この種の母音交替や語の結合によって 無限の発生が考えられます。すなわち “あか” も “くろ” そのものも、別の何らかの語の変形であるとの考え方も否定できません。

が 前の形容詞の一部であるという見方もありますが、一種の接続用の助詞であると見なすこともできます。たとえば “あかるい(明るい)” という語には “あかるさ” “あかるみ” “あかり” “あかす” など “あか” に 続ける形でも 品詞の異なる複数の言葉があります。

上のパターンから言えば、「あかるい」つまり「あかるき」とは、本質的に ak+al+uki の3つの言葉のつながりで、“あかるき空” は (ak+al)+uki+(sola) であるとも言えるわけです。ここで、(ak+al) の ak は、“あく” “あける” “あか” などの共通部で、alは「ある」と同じく「何らかの状態をもつもの」、ukiは「受き(うき)」に同じく「状態を受ける」つまりここで言えば akal(太陽の光)を受けている空 との解釈が可能であるからです。

“重い” “荒々しい” にも また興味深い性格があります。”重い” に対し “重し” があり、“荒々しい” の元の “荒い” は “荒らし” があり、これは古語においては形容詞の終止形であるようでいて、同時に昭和日本語では名詞です。( 「重しをする」、「荒らしの被害に あう」など)

“ありがたい” の連用形 “ありがたく” を “ありがとう” と するようにして、“重い” の連用形は “重く” から“重う(おもう)” のようなウ音便にすることが可能です。この語はさらに 口語では「オモ」だけに縮ぢみ、“重くする” は “オモする” となり、これを連用形にすれば “オモし” ですから、これは「見通し(みとおし)がつく」や「施し(ほどこし)を受ける」と同じ、動詞から派生した連用形名詞と見なすことができます。

もう ひとつのポイントは、多くの イ形容詞は 語幹部分だけで熟語を構成可能なことです。

赤とんぼ・黒真珠・長丁場・荒療治あらりょうじ・厚揚げ、手荒てあら根暗ねくら品薄しなうす夜長よながなど。

このように見ると結局の所、我々が形容詞とみるものは、“楽する” とか “宿す” のように 名詞に  する を追加して動詞にするのと同様に、単に名詞にをつけて 形容詞らしき性格を 後付けしたものとみても 不自然ではないと言えます。(宿は 万葉集でいう 屋戸 なので、動詞の派生が後 )

品詞の文脈依存

形容詞(adjective) 表現では、必ずしも単語そのものの品詞が独立して確定しているとは限りません。たとえば英語で Japanese と言えば、日本の・日本語の という形容詞であると同時に 日本人・日本語 という名詞でもあります。

また interested などは「興味を持った」のような形容詞でありつつも 動詞の interest (興味を持たせる) の過去形や過去分詞とも言え、これらが厳密にどうなのかは 前後の文脈によって決まります。

日本語でもこれに類するものはいくつかあります。

先に挙げた 色の “赤” や “黒” も 名詞のようでいて、“赤信号” とか “黒毛” などというと 半分 形容詞のような働きをしています。しかしこれは 名詞+名詞の複合語であるとも解釈されるので良い例ではありません。

他のもので、たとえば “ない” は 物が存在しないことを言う形容詞ですが、同時に動詞の否定形を作る助動詞にもなります。

「お金がない」の「ない」と、「本を読まない」の「ない」はどちらも否定的なニュアンスですが、微妙に意味が違います。
漢字では前者は、後者はとなります。
文語で「〜者」を付けるには、「金無き者」「本読まぬ者」という違う形になります。

“ある” も 「お金がある」と「むかしむかし あるところに」とでは、それぞれ動詞と連体詞で異なります。
これも漢字だと “有る”、“或る” に書き分けが可能です。

いずれも漢字では区別されるのにカナではそうしないのは 和語ではそこまで厳密な区別が必要ないという ルーズと言うか寛容な態度の表れでもあります。

しかし「ない」「ぬ」「ん」「ず」のように 鼻にかかる音に対して否定的なニュアンスを 語感として表現しているところは一貫しています。

「ない」の形は n+ai と見え、 この形は「赤い」が ak+ai と同じ ai を後ろに持ちます。
「ぬ」は n+u と見ることができ、この u を akに付けると ak+u つまり 「あく」となり、“空く” “開く” と同じ音になります。 このことは、頭の n 部分が否定を表す 有-形容性-名詞 であり、後ろの部分が単語動詞の関係性を決める助詞であるとの見方も可能です。

他のパターンとしては、複合語における位置関係が単語の性格を変えることがあります。

たとえば “西出口” と “出口西” のようなものです。ここで “西” は 方角を表す名詞です。“出口西” のケースでは「出口があって、その西」という意味で、いずれも名詞と解釈するのが普通でしょう。 対して “西出口” では「西にある出口」という意味で、明らかに“出口”に対する形容詞(adjective)として働いています。 「西な出口」と言っても良いかもしれません。

通常このような単語を 日本語の国語文法では いちいち 形容詞とは評価しませんが、無意識のうちに 人々はそのことを理解しています。

この種の並びでは時折 音が変化するものもあります。たとえば “上 (うえ)” は、“上澄み (うわずみ)”、“上着 (うわぎ)”、“上前 (うわまえ)” のように「うえ」が「うわ」に変わります。語末で「うわ」と読むものはありません。

“目 (め)” は その周辺を示す関連語に “まつげ” “まぶた” “まなこ” “まゆ” “まなざし” “まばたき” が あるように「ま」の形に変化して現れています。ほとんど分離不能な1語となっているので「ま」を形容詞とは評価しづらいですが、大昔からあるような複合語には このような強い係り受けの関係 つまりは連体詞の機能 を 音の変化で表現するものは多く存在しています。

語形変化

形容詞(adjective)の その他の特性として外国語で目立つのは、文法的-性 というものです。

イタリア語などラテン系言語で顕著です、たとえば 石ころを表す女性型の名詞 pietra に対しては la, una, carina など末尾のaを同じくする女性型の形容詞を使って修飾します。この形容詞の語形変化は、その指し示す対象を名詞として文で明らかにしなくても ある程度誘導され、間接的に暗示する効果があります。

この機能は日本語には ありませんが、代わりに 丁寧語の存在がこれと似た振る舞いを持ちます。

「水 (みず)」を「お水」と言うとき、そこには ある種の女房言葉的なニュアンスが含まれることがあります。水そのものの状態が なにか変わるわけではありませんが、それを提供する相手との関係性を音に込めて表現します。その意味では「おいしい」などもそうです。“良い” は「よい」と読みますが、「いい」とも読みます。この古語表現とも考えられる “美し (いし)” という形容詞表現があり、ここにを付けたものが「おいし」です。「よい」は堅く “良し(よし)” の語も 今でも残りますが、「いし」は「おいしい」の形だけ残っています。中世で食事を提供する者の立場の記憶を言葉が受け継いでいます。

日本語で古来より男言葉とは つまり古くは漢語であり、丁寧語には 漢字では同じでもこれは「ゴ」と読むものが多くなります。を つけるとそれは 漢語らしさは弱まります。また、まれに「み」がつく みほとけ(御仏) みささぎ(御陵) みことのり(詔・御言宣) のような言葉もありますが、神仏または王や皇帝のような最高位の敬意を表しています。

この記号は それがつく単語の あるじを誘導する意味においては 文法的-性 と同じような効果を有しており、とくに 形容詞に付く「お美しい」「お優しい」「お高い」「お静かに」「おしとやかな」「お綺麗な」と「ご優秀な」「ご立派な」「ご聡明な」「ご寛大なる」などとでは その係かる対象と関係性に濁点の付くその語感からか微妙に差があります。

英語など多様な 外来語が流入した今では このは うまく調和せず 面倒な存在となりつつあり崩壊気味ですが、今のところは まだ健在です。

仮想活用形形容詞

この“仮想活用形形容詞” なる呼称は何ら文法用語ではありませんが、イ形容詞の応用とも見える語がいくつかあります。

これは特に否定など活用時に現れます。

  • 好きくない ← 好き + ない
  • 違くない ← 違う + ない
  • いかんくない ← 行かん + ない、悪くない
  • アリくない ← あり(える) + ない、有益ではない
  • マジくない ← 本意でない
  • パねくない ← 半端ではない + ない

日本語の形容詞(イ形容詞) について、昭和の活用形の説明では「かろ・かっ/く・い・い・けれ」という標準形があると指導されます。上記のような使い方は この文法では誤った使い方ということになります。

しかし現実にはこういう誤用は ありふれていますし、たいていはそれで通用してしまいます。この背景として、そもそも形容詞の活用という考えが妥当なのかどうか再検討の余地があるかもしれません。

“好きくない” のような単語が不自然に感じるかもしれません。
そのかわりに “大きくない“ はどうでしょう。これはごく自然です。

“大きい” は形容詞ですが “大いなる” という文語的言い換えがあります。また字は違いますが “多きを得る” のように親縁の語の中に「おおき」だけで名詞になるものがあります。

“好き” は 時々 「“好き” を仕事にする」のような名詞を作ることがあります。
であれば、名詞の “赤” から “赤い” を作るのと同様に、“好きい” という形容詞を作ってはいけないのでしょうか。

“違くない” ではどうでしょう。
“違う” は動詞 ですが、同じ「ァウ」の音で終わる ワ行の五段活用動詞に、“合う”・“従う(したがう)”・“担う(になう)”・“嫌う(きらう)”・“疑う(うたがう)” などがあります。

ここで、“嫌う” はそのまま “嫌いな” という ナ形容詞があります。「にんじん、キライ。」のようにして、形容動詞の語幹のみで終止形のようにして文末に現れることも良くあります。

これをマネれば “違いな” の ナ形容詞は作れます。

“疑う” には “疑わしい” という形容詞があります。
似た形で “ふさわしい” という語があり、 古語の動詞 “ふさう(触沿う)” が元にあります。

この形は “あう” から “あわす” の使役を作り、さらに形容詞を作る「(ィ)キ」をつなげたものです。
( _au → _aw-as → _aw-as-iki )

これをそのまま応用すれば、“違う” から “違わしい” を作ることができます。

このパターンを見ていくと、実はすでに形容詞を作るためのルートはたくさんあって、うまく活用できてないとも見えます。組み合わせのいくつかがあまり使われずに辞書に載らなかったり、出てきても死語になったりすると、学習の機会もなくてルートが確立せずに停滞するわけです。

活用と助詞のはざま

イ形容詞が実際に用いられるとき、「美しいです」「楽しいです」のように 助詞 “です” とセットになることが多いです。

通常、親しい間での会話以外に、大人同士の会話で終止形で「い」が現れることは 多くは ありません。また子どもでも 早期の丁寧語教育を進める幼稚園や小学校もあり、です・ます 無しの終止形を耳にする機会が少ない人もいるでしょう。

この助詞付きの形で が前後どちらに属しているかは 漢字か何かのマークなしには 明確ではありません。
同様に連用形で現れる “楽しない” “美しない” も、が どちらに属しているかは 明確ではありません。

もっというと、“楽しみ” “楽しさ” “楽しませる” “楽しめる”“楽しんで” “楽しゅうて” のように、も元のも取り去る他の形もあります。このうち “楽しませる” “楽しめる” は直接 “楽しませる歌” “楽しめる映画” のように形容詞的に接続することも可能です。

また可能動詞を混ぜて “楽しめれば” とすると “楽しければ” の仮定形と よく似ており、“楽しかった” の連用形も “楽しめた” としても意味に大差はありません。

ただし “める” を使うのは “楽しむ” のを使って動詞にした上でのことなので、“長い” “大きい” などには使えません。“高い” に “高める” 、“広い” に “広める” はありますが、これは (自らが)“高まる” のに対して (他のものを)“高める” という自動詞/他動詞の関係で、可能動詞ではありません。その意味では万能とは言えませんが、「かっ」「けれ」も特別に扱うのもバランスを欠いているわけです。

“楽しんで” について 古い言い方では “楽しみて” で、この 「み (mi)」 から 母音 i を取り除いて 連濁で接合すれば そうなります。これは “編む(あむ)” などにしても同じく、“て” に接続する時に「あんで」となります。

結局 イ形容詞なるものの 正体は、形容的な名詞に接続用の助詞が付いて、名詞同士の関係性を明らかにした形と見ても問題ないわけです。このことは ナ形容詞で “健康な” から “健康” を名詞として取り出せるのもそうですし、他言語においてその多くが 名詞/形容詞 兼用となる語がある辺りから見ても ごく普通のことだと言えるわけです。

カナ分解の限界

動詞の五段活用は アイウエオ の母音を取ります。
ない、張ます、張、張ば、張う のように ラリルレロ でキレイに並びます。

これをたとえば ローマ字式のカナ表現を用いると
張ロァ、張ロィ、張ロゥ、張ロェ、張ロォ、のように 語幹が「張ロ」までに伸ばせます。

広い、広く、広まる、広める、広がる、広げる、広さ、広々、広間、広ーい。
ここで 広さ を表しているのは「ヒロ」の部分にこそあり、後ろはそれを捉える視点が違うだけです。

ここで “広がる” と “広げる” 、“広まる” と “広める” には 子音母音にそれぞれ関連が見られます。

ヒログ+○ヒログ+○
○+ァル広がる広まる
○+ェル広げる広める

ァル が付く形は どちらも 自分自身が 広くなることを言い、ェル の 形だと 何かのものを広くする 作用型であることが分かります。

ここでもし ァル/ェル を単独の 助詞として理解しているとどうでしょう。
これらを他のあらゆる 形容的な名詞に適用しやすくなります。

上がる・下がる・群らがる、高まる・薄める・止まる・ハマる、
こういった語にはペアになる語がかならずあるわけではないですが、分割の位置を変えれば関連する別の語を作るルートが見えやすく定まります。

日本人は日本語の教育の中で、 形容詞の品詞という分類や 五十音という ある種のフレームワークを 長い時間をかけて構築してきました。この枠組は便利であるようでいて、独自の造語を生み出す上では この枠からはみ出すことができず、ルールを飛び越えて良い答えを見つける障害になってはいないでしょうか。