昭和的文法解釈の罠

可能動詞

一般に日本語では「〇〇することができる」という能力や可能性を持つことを示す表現として、可能動詞というものを用います。

  • 言うことができる→言える
  • 飛ぶことができる→飛べる
  • 話すことができる→話せる

このパターンの可能動詞を作る元になる動詞は、国語的には「五段活用の動詞」とされます。

下一段や上一段ではこうはなりません。

  • 食べることができる → 食べられる
  • 変えることができる → 変えられる
  • 切ることができる → 切られる

こちらは可能動詞とは呼ばず、助動詞「〜れる」が未然形にくっついたと言う風に解釈します。

このことをもって、「飛ぶ」に対する可能動詞「飛べる」は、「飛ばれる」という言い回しがなまったものだと言う解釈が一般的です。

助動詞の「れる」という考えが生まれたのは1900年以降、主に昭和の日本語であり、その様な文法解釈が生まれる以前から日本語は存在してます。

言って見れば後付けで整理したものです。

日本語の古い助動詞では「れる/られる」が生まれる以前、「る/らる」という表記がありました。「読まれる」に該当したのは「読まるる」です。

動詞「ぇる」

小学校では国語の枠組みの中でしか国語を教えませんが、それより後で習うローマ字で記述すると少し見方が変わります。

五段活用動詞が可能動詞へと変化するパターンを見ると、
「言う」=「i-u」なら「i-e-ru」、「飛ぶ」=「to-bu」なら「to-be-ru」のように「u」が「e-ru」へと変化したものと見ることができます。

「e-ru」が何なのかと言えば、これは「得る」です。

つまり「飛ばれる」→「飛べる」ではなく、

「飛ぶ」+「得る」=「to-bu」+「e-ru」=「tob u eru」

ということです。

音声的に見て、「飛ばれる」が「飛べる」に変わるより、「飛ぶ得る」あるいは「飛び得る」が「飛べる」に変わる方がよほど簡単です。

同じパターンの単語として生き残りは「有り得る」(ありえる)というものがあります。これを同じルールで短縮すると「a-re-ru」となりますがこれだと「荒れる」と区別がつかなくなります。このため分かりにくさ回避のために同じ変化が起きなかったものと考えることができます。

可能動詞に似ている単語としてよくあげられるものに「見える」とか「聞こえる」という言葉があります。

昭和の文法整理では「見える」は可能動詞ではないとされますが、ローマ字に直して音を分解するとこれも あながちそうとも言い切れません。

「見える」は古典的には「見ゆ」という単語が該当しますが、「得る」は古典の終止形では「う」の1音です。

「見」を上一段活用の「み」と解釈し ここに「う」を続けて、「mi」+「u」なら「miu」となり「みゆ」という単語に変化してもごく自然です。

iはyに化けるのは、現代でも「言う」が「いう」と「ゆう」、「行く」が「いく」と「ゆく」の両方の発音が使われていることからもこれも自然な変化です。

また古典の世界においては録音がありませんから、その当時の人々がどのような発音をしていたのかは厳密には定かではありません。

その片鱗が見えるのはにはにはという別の字体があることです。

いろは歌で「有為の奥山」が「うゐのおくやま」とあったように、大昔にが連なる様な箇所ではiuの中間音が運用されていたと しても何ら おかしくは ないと言うことです。

下一段、下二段動詞+「得」(う)が付いたとき(「出ゆ」=「いでゆ」 など)に、euの中間音が出てきても これもまた おかしくはないのです。

そうなると「み」の音は現在で言うところの「mwi」のようなものだったり、「myi」のような発音だったもしれず、そこに「u」が付くと「myu」となったとしても別に不思議はありません。

日本語の古典学者らの間では、日本最古の書である古事記が書かれた西暦700年ごろの日本語の母音は、現在のアイウエオの5つではなく、8つであったとされています。

これは奇妙なことで、「あかさたな はまやらわ」の10行に母音8を掛けると80音になり、昔の日本語が「いろはにほへと…」で覚えられていたにしてもこれは47字しかなく、濁点をつけても67です。変体仮名を含めるともっと数が多くなるのですが、これの音の区別は今となっては分からないのです。

現在の日本語ならば拗音を使ってたとえば「キング」と「クィーン」のような音の違いが区別されますが、拗音がなかった昔には妥当な文字を見つけられず、適当に近い文字を使って書く者がいたとしても仕方がありません。

ですから現在の文法における分類は、もっと長い古代や将来の日本語を考えた時には、必ずしも正しいものであるかは言えないのです。

ら抜き言葉とは

可能動詞の成り立ちが 動詞+得る から来たと言う考え方を下一段や上一段動詞にあてはめると、次の様になります。

  • 食べる → 食べれる
  • 着る → 着れる
  • 煮る → 煮れる
  • 見る → 見れる

これが悪名高き ら抜き言葉 です。

なぜ悪名かと言えば、昭和の国語文法では「れる」が助動詞という扱いだからで、その立場からは「たべれる」は「たべられる」でなければならないからです。

しかし「たべり」+「得る」なら、「たべれる」の方が適切です。

このことが意味を持つのは、受け身系との区別です。

「食べられる」には「食べることができる」の意味と、「(だれか他人に)食べられる」の意味の、2つの解釈が成り立ちます。

日本語は よく主語を省略する言語であるので、文中に明示されていない、暗黙の主語が存在することがあります。

たとえば「その魚は 食べられた」というと、少し見ただけでは主語は通常「その魚」に見えます。

ここに「僕は その魚は 食べられた」のように別の主語を追加することができます。ここで「その魚は」は直接の主語ではなく「その魚だったならば」の意味の副文の省略形です。

これは副詞の扱いですから「その魚は 僕は 食べられた」という逆順になることもあり得ます。

暗黙の主語として使われるのは通常 話し手か聞き手のいずれかです。

この時、常識的に考えて「魚」が「僕」を食べるとは考えられません。ですから「その魚は食べられた」の解釈としては次の2通りが考えられます。

  • その魚は(何者かに)食された → 受け身
  • (話者は) その魚を 食べることができた → 可能

しかし「食べられ」を 受け身の表現 と解釈した場合は 魚は食べられてしまって もうこの世に残っていない のに対し、暗黙の主語を補い可能表現文として解釈すると、残っているかどうかは必ずしも明らかではありません。

「僕はその魚は食べられた。しかしあの日は緊張して箸が進まなかった」

これは文章としては十分成立し得るものです。

魚は食べられないままゴミ箱に行ったかもしれません。

もちろん「その魚は僕にも食べられるものだった」などと修正することはできますが、これでは「僕」が丁寧になり、少し個性が変わってしまいます。

それよりも「その魚は食べれた」とする方が はるかに簡潔かつ人物の個性を維持している表現であると言えます。

ら抜きの未来

現代の日本語は、必ずしも日本語の中だけで閉じて運用されるとは限りません。

グローバル化が進んだ現代においては、何らかの翻訳ソフトを使って他言語に変換をかけることもあります。

たとえばGoogle翻訳を使って訳した場合、
「その魚は食べられた」なら「That fish was eaten」と出ます。

一方「ら」を省いた
「その魚は食べれた」なら「I could eat that fish」と出ます。

「ら」がある場合は受動態(受け身形)になり、無い場合は暗黙の主語として「I」(私)を自動で追加して可能の助動詞could(canの過去形)が補われます。
(この結果は将来変わるかもしれません)

どうやって学習しているか正確なところは不明ですが、一般的にAIは世の中にある多くの文献の中から共通の法則性を探り当て、一番可能性の高い訳語を選択します。

このことから考察されるに、「ら」が無いものは可能動詞、有る場合は受け身であると、世にある多くのサンプルがそれを語っている可能性があります。

ら抜き言葉は すでに現実世界において「人格」を持っているのです。

「られる」表現 にはもう1つ、尊敬語の機能もあります。

「お客様は何時頃に来られますか」のような文です。

しかしこちらは翻訳の際には大して問題にはなりません。ほとんどの局面では自分以外が主語の時は常に敬語であり、特に文中で「様」などの単語が現れた時はその相手が行う動作を敬語化するなど別のロジックが使えるからです。

また翻訳以外にも 音声入力を使って機械に対して指示を出す場面も今後は想定されます。

機械が相手となると、人間を相手にするのと違って常識が通じない可能性が想定されます。

「出られたら電話に出てください」というような言い回しは、出ることができるなら(可能ならすぐに)なのか、誰か上の人が出たら(それまでは待機せよ)ということなのかハッキリしません。

これを「出れたら」にすると後者の意味は排除され、なぜか待機したままということにはならないでしょう。

他にも可能性としては、相手が子供だったり、外国からの移住者かもしれません。

どちらも将来の日本を支える立場と なり得る一方で、日本に嫌気がさせば外国に出て行ったりもしかすると反社会的な問題を起こすかもしれません。

聞く側が言葉を学ばないことが悪いのか、話す方が誤解される表現をすることが悪いのかどちらか分かりませんが、話が伝わらないからと言って絶縁したり差別してしまうと いずれ衝突や互いの損失になる恐れがあります。

複数の解釈ができる文法はなるべく少ない方がお互いにとって楽です。

分かりにくい漢字や古いことわざ、故事成語などは使うことが敬遠され自然淘汰されていきますが、文法については新しい標準を模範として示すことが必要になります。

そうしないと自分が習った文法こそが正しいとして主張して周りを攻撃する文法警察が、大学を出て年老いて亡くなるまでおよそ60年は居座り続けることになり、社会の進歩を阻害するからです。

未来の文法拡張

ここまで見てきたように、現在使われている文法というのはあくまで長い時代の中で一時的なものであり、ごくごくせまい範囲でしか通用しないものであることがわかります。

もっとも、まだ基本を覚えていない小さい小学生を相手に日本語を教えるのならば、あまり自由度が高いことよりも単純化されたものの方が学習がしやすくて良いのかもしれません。

ですがこれから先はそうも言っていられません。

小学校でも英語教育が義務化され、プログラミングなど新しいテーマも加わっています。

日常生活にはコンピュータがあふれ、見たことのない異国の文字なども簡単に入力したり読むことができる状態です。

外国の人ともコミュニケーションをとることは その気になれば何歳からでも可能です。

こういう状況下で、外国語にはあるのに日本語では存在しない文法があると、翻訳の際に不自由が生じることもしばしばで、ただでさえ違う単語を覚える負担があるのに それだけでなく概念の理解にも苦しむという二重の負担が生じます。

「その皿は洗っている」は日本語としては通じますが、翻訳機にかけるにはまず「その皿は洗われている」にしなければなりません。
しかし そうすると「その皿は現れている」と聞き違いが起こるので音声入力では使用できません。

「その皿は洗浄されています」ならば誤解がないかもしれませんが、長くなるため非効率です。
英語の受け身の現在完了(has been washed)に相当する表現は、「その皿は洗ってある」が字面としてもかなり近く最短最速ですが、「ている」と「てある」で時制が違うのだという解釈は聞き違いが生じやすく紛らわしいです。

これは「洗っている」を廃し「洗ってる」と「洗ってある」に分けると明確になりますが、「ってる」を正しい文法とする解釈はまだ少数派でしょう。

関西の表現なら「洗ってある」は「洗ったある」や「あろうたある」など「た」を加えて過去形らしさをキワ立たせた言い方がありますが、このパターンは関東圏では受け入れ難いでしょう。「洗ったアル」とカタコト日本語に勘違いされかねません。

他に、「遅れる」と「送れる」もそうで、こちらも文法がもたらす衝突の1つです。

「メールが遅れる」と「メールが送れる」など、自動送信・保存システムが進歩したことにより、人々の仕事のやり方が 同時刻ではなく時間差・非同期的に行われることが増えたため、時間を表現する文法の少なさ曖昧さが思わぬところで衝突を増やしています。

これも暗黙の主語が絡む問題ですが、「メール」なるカタカナ語が動作物体のどちらを表しているか曖昧なために余計に混乱を起こします。

「配達が遅れる」とは言っても「配達が送れる」とはあまり言いません。
これは、の字が付くことで名詞が物体でなく動作であることを自明とするためで、「配達できる」の方がスマートであることが直感的にわかるためです。

「宅配」や「郵送」に置き換えても同じです。しかし「メール」は不明です。

このような外来語やシステムが複雑に入り組んだ現代の日本語文法に、種々の欠陥があることは大人にならなければ体験しないものも多く、そこから やり直そうと思っても、周りは古い文法しか知らないのですから、使いにくいものを使いにくいまま我慢するしかないということになってしまいがちです。

日本語には突き詰めるとまだまだ深い文法概念が存在します。

「死ぬ」と「死す」がどう違うかについて、単に一方が古語であると捨てることもできますが、そこに新たに意味を付け加える余地もあります。

未来を予想して先回りして文法を考え、将来の日本人にのこすということも少し考える必要があるように思います。