時代変化と字義のギャップ
「空気」などの単語に使われる気
の字は、多くの意味を持つ漢字です。
辞書によって様々ですが概ね5つ6つくらいの意味に分類されます。
- 空気や蒸気、ガス:
空気・水蒸気・大気・冷気・気流 - 宇宙や自然の動き、科学現象:
気候・気象・天気・磁気・電気 - 人間の精神、心の様子
根気・勇気・負けん気・生気・怖気(おじけ)・嫌気(いやけ)・病気・元気 - 意識、認識すること
気をつける・気付く・正気・狂気・人気 (ひとけ)・気配(けはい) - 人を取り巻く社会や世界の様子
景気・雰囲気・気運・人気(にんき) - 霊的・神的なもの、人知の及ばない力
霊気・邪気・妖気・瘴気・闘気
このようないくつもの意味を持っていながら漢字一字であるものは、遥か昔に科学が未発達であり、目に見えない力を すべて引きくるめて 霊的現象としてとらえていたような部分が関連していると考えられます。
現代の医学で病気の多くはウイルスや病原菌や寄生虫などが媒介していることがわかっていますが、大昔ではそれらは幽霊や妖怪によって運ばれているという見方がありました。
人が吸い込む空気が神羅万象を司り魑魅魍魎が潜み 未知のエネルギーが存在しているという発想は自然なものです。
しかし現代の科学一般を考える上では もう少し正確な表現があっても良さそうなもの。
少なくとも「天気」の気
と、「根気強い」の気
は、人間の内と外という異なる世界に存在するものです。
医学・生物学の未発達な時代では、人が吸った空気がそのまま体内で利用されている考えがあっても、現代では人が体内でエネルギーとして活用しているのは空気全部ではなく基本的には酸素だけという考えが普通です。
厳密に言えば タバコのように一酸化炭素のようなガスや 香水のような匂いの物質が人の体に作用することはあっても、一般にこれは空気に異物が混じっているのであって空気と同一とは見なしません。
同義異字・同義多字
日本語の「みる」という言葉に対して、漢字には主なもので「見る」「観る」「視る」「診る」「看る」のように、いくつもの文字が存在します。
このうち「診る」「看る」は動作がかなり違うので別として、「見る」「観る」「視る」は厳密にどこからどこまでがどの文字なのかは必ずしも明確ではありません。
たとえば演劇などは、それを見る客のことを「観客」と呼びます。その一方でテレビを見る人のことを「視聴者」と呼びます。
ではテレビで演劇の放映を見るときには「観る」なのか「視る」なのか、どちらが正しいのでしょう。
態度が異なるのだという説明もあるかもしれませんが、テレビを観ているのか視ているのかは本人の主観の問題で、客観的に判断するのは ほとんど不可能ですし、そもそも そんな違いは どうでも良いという場面も多いでしょう。
同じような例は他にも多くあり、例えば
- きく: 聞く・聴く・訊く
- える: 得る・獲る
- あける: 開ける・空ける
- まわす: 回す・廻す
- いれる: 入れる・挿れる・容れる
- みち: 道・路
- かわ: 川・河
- おか: 丘・岡
- さと: 里・郷
このような全ての局面で正確に書き分けられるのかと言えばそれは不可能なことです。
それどころか「道路(どうろ)」、「河川(かせん)」、「郷里(きょうり)」、「聴聞(ちょうもん)」、「獲得(かくとく)」のように、両方の文字を1つに合わせた熟語も存在しており、つまりはどちらでも良い場面が存在するということを文字自身が表明しているとも考えられます。
ここで ひるがえって、先の気
の字を考えてみるとどうでしょうか。
ここまで細かくあれもこれもとわずかな違いを書き分けていながら、「気象」と「気性」に同じ文字を認めることは、あまりに二律背反というものです。
分割のロジック
空気の気
の字の部首は 气 (きがまえ)です。
これが構として部首になっているケースは少ないですが、文字の一部の部品に含むものは次のような文字があります。
气・気・汽・氣・愾・氤・氛・氳
「气」は実際には単独で文字というわけではなく部首記号に属しますが、入力ソフトによっては「きがまえ」で変換すると入力できます。現在の「気」の曖昧な用法から考えると、これだけでも十分通用するでしょう。おおざっぱな意味を伝えたいなら、このような共通部品のみをとって簡略化して文字として使うことも考えられます。
気
と近い自然な文字は汽
の字で、一般に「汽車」「汽船」くらいにしか使用されませんが、主に水蒸気や熱のエネルギーを含むものです。ですからこれを使って「天気」のかわりに「天汽」、「大気」の代わりに「大汽」、気象の代わりに「汽象」のようにしていくのは1つの解になりえるでしょう。
また気
は旧字では氣
と書きます。
したがって 古い概念を表す場合には あえて旧字体を使うという手法も考えられます。
「霊気」「妖気」「邪気」「瘴気」のような今となってはオカルトやファンタジーの世界でしか使わない言葉ですが、これらは「霊氣」「邪氣」「瘴氣」としても現状のIMEでは少し入力しづらい程度で、実用上の問題は さして考えられません。
同じように忌々しい意味を持つ「病気」に関しても「病氣」としても良いかもしれません。
氳
の字は「さかん」や「ウン」と読まれ、これは「温かい」の字の作りに似ていますが 心が熱く盛んであるという意味合いにあたります。
その意味では「根気」「勇気」「覇気」のような語句に使える可能性がありますが、音も違っており、画数が多く書きにくく、また小さい文字にすると潰れてしまいます。
そういう点も踏まえると 心的な意味を表すものには ⺖(りっしんべん)に气(き・つくり) を合わせて ⺖气 のような新字の登場がもっとも望ましいのですが中々 現代の日本でこれを期待するのは難しいかもしれません。
1つの可能性としては ⺖に旧字の氣
を連ねた愾
の字に対して、フォントデータとしてそのような略字体を制作することです。Unicodeに新たな文字を加えるにはIETFへの働きかけのような大掛かりな運動が必要ですが、既にあるコードポイントに対してに見かけが少しちがうフォントを作るのは個人や開発会社が独自に実施できます。
氛
の字については「景気」などの周りの環境を表す文字として使用できる可能性がありますが、これは「フン」と読むため混乱を起こす可能性があります。
このように、もともとの文字がいくつかのパーツの組み合わせによって成り立っているケースでは、そのパーツを持つ別の文字を広く探してきたり、あるいは使われていない組み合わせを新たに新字として生み出すといったことで、曖昧な意味を正確にしていくことが可能です。
分割が期待される文字
「気」の他にも複数の漢字に分割した方が適切な可能性がある文字はあります。
心
- 人の心
心労・心配・心身 - 真ん中あたり
中心、重心、心棒
心のある場所がどこなのかは今でもよく分かりませんが「こころ」「ハート」という人間の一番大事な部分が、なぜか数学や幾何学、工学や機械の分野であらわれます。これは軸とかセンターとか言い換えられますが、「こころ」とは直接関係ありません。
日
- 太陽
日光、日射、日没、朝日、日照 - 日付、1日
日中、日刊、日報、日時、日次、日当、両日、同日、前日、全日、半日 - 日本
日中、日韓、日朝、中日、西日本、日系人、親日、訪日、全日本、反日
「日本」の国名を変更するのはほとんど不可能な話ですが、1日という意味での日
は何かと文章を複雑にします。
とくに「日中」は扱いにくい単語です。国として書く場合に「日/中」とか「日・中」「日:中」と書くような普遍的ルールが存在すれば良いですがそうではないため、時として誤解を生みかねない文が現れることがあります。
図表などに至っては 日を表す英単語のdayをとってD1、0.5dのように記載されるケースも少なくありませんが、全ての日本人が分かるかといえば少々疑わしいところがあります。
お寺の鐘の音で1日を数えていた時代ならいざ知らず、天文学が発達した現代には24時間を表す漢字が存在しても良いでしょう。
日光は陽光、朝日は朝陽としても差し支えないことから、「日」の使用を控えることができます。
国号としての日本の略記は JPあるいはJPNのような ISO国際表記を用いることも考えられます。特に新聞やニュース、社会科の教科書などで「日米」などと書くのはやめて JP&USのような書き方を使うようにすればいずれこの語は消滅して使われなくなるでしょう。
時
- 1時間、60分という特定の長さ、または時刻
1時、2時、24時間など - 時の流れ
一時(一時停止など)、長時間、短時間、時空、時限 - 瞬間
随時、臨時、あの時、その時、次の時 - 場合
〜する時がある
最も問題になるのが「一時」です。
単位としての時
に関しては何か別の文字があるとかなり有効な可能性を秘めています。
時間的長さについては英語の hourの頭文字を使って 1hあるいは1hr 、時刻の場合は 1:00 と書くことができますが、反対に「一時」が1:00の意味では無いということを明示できないという意味においては分ける意味が考えられます。
hour を使う言葉には「ラッシュアワー」のような言葉もあり、常に正確に1時間というわけでも無いということも理由の1つになります。
手
- 人の器官としての手 → 挙手、手刀など
- 方法 → 手段
- 労働力 → 人手
- ペンを使うこと → 手書き、手紙
性
- 性別
- 社会的 性別 (いわゆるジェンダー)
- 性格、性分、性質。
→ 積極性、揮発性、水性、油性など
説明は省きますが、社会通念や技術の発達などから、文字と実際のズレが出てきている部分が否めない語句と考えられます。
翻訳との協調
「みる」の例では「見る」「観る」「視る」のような複数の文字の存在を指摘しましたが、これを英語にするとどうなるでしょうか。
see , look, watch のような複数の単語が考えられます。
同様に「きく」に関しても listen , hear, ask のような単語が考えられます。
現代の日本語は国語の中に閉じておらず、他の言語と混ぜ合わせて使用されることが非常に多くなっています。その意味では外来語にある概念にちょうどよく当てはまる単語があるかどうかは1つのポイントとなります。
同じ「気」でも「気をつける」「気にする」「気を配る」は微妙に異なる意味を持ちます。熟語にすれば「注意する」「意識する」「配慮する」のようなことなる漢字が登場することがあります。
多くの場合 文字が異なる場合はそれに対する訳語も変わるのが自然です。
現在の「気」は既に airとmindとsoulとenergyとweatherが混ざった得体の知れない何かですが、仮に文字を分割した場合にその分類の仕方がまずいと、他の言語に訳せないなど、一部の人を困らせることになる可能性があります。
今では小学生でも英語が必須になっています。
意味の分類の仕方として相互に翻訳しやすいような位置で文字を変えるということを意識すれば、学習の効率も良い体系にすることができるかも知れません。
常用漢字と外字
何かとメリットも多い漢字の分割ですが、反対に問題が増えるという見方もあります。
旧字の氣
が使用されないのは この文字が画数が多いことに加えて、文字が増えれば増えるほど学習に時間がかかるということです。
常用漢字については文化庁のサイトに一覧があります。2010年に改訂が行われ、2000文字あまりが規定されています。
人の学習時間・記憶力には限界があり、小学校から10年以上かけても学習しきれないほど文字が多いというのは他でも述べた通りで、それゆえ学習要項、ひいては常用漢字という枠を設定して難しい文字は学習の義務から外しているわけです。
この考え方には一部に論議のあるところですが、他に学ぶことが色々ある以上はどうしようもありません。
しかし、対処の方法として、必ずしも文字を減らすことばかりとは限りません。
奇跡の軌跡
起こりそうも無い偶然が重なって良いことが起きることを「奇跡」と書きます。いわゆる「ミラクル」という意味です。
「奇跡」には、別の文字で「奇蹟」という書き方があります。
このときの蹟
の文字は常用漢字表には含まれていません。
したがって学校教育や新聞等の公共のメディアでは人名や地名など固有名詞でないときは、むやみに「奇蹟」の字は使えません。
旁(つくり)の責
と亦
とを比べると、責
は音読みでセキと読む一方で亦
の字はエキと読みます。
亦
は「また」とも読みますが元は「立った人の周りにあるもの」の意味で、字形にたくさんの点があることから、足
と合わさって「あしあと」のことを意味する文字となったいうことです。
責
は「責任」などでよく使われる文字ですが、蹟
の方はこれは物事が行われたある種の歴史、重大な行動の「あと」に当たります。
蹟
も跡
もどちらも「あと」「セキ」と読みますが、ニュアンスはわずかに異なります。しかし蹟
は常用外で使用できませんから、音も意味も似ている跡
で代用されるわけです。
しかしここで、仮に「奇蹟」の読みが「キセキ」ではなく、「キセク」とか「キシェキ」「キシェク」のような別の発音だったらどうでしょうか。
音が違うものは聞き手に違う単語と認識されますし、PC等で漢字変換するときも間違えることもありません。
また音が違っていたら仮に漢字を覚えていなくても、「キセキ=奇跡」「キシェク=奇蹟」として、異なる単語として認識可能になります。つまり漢字の暗記が必須でなくなるということを意味します。
このように、だだただ闇雲に漢字を増やして学習者への負担を増やすようなやり方ではなく、うまく漢字のカナの振り替えを同時に行えば、漢字がわからない人でも その語を区別して取り扱うことが可能になります。もちろんカナの分からない外国人がローマ字で書いた場合などでも同様です。
結局のところ漢字が難しく覚えにくいのは、日本語の発音が貧困なことで同音語が生じやすい点と密接な関係があるということです。