やさしい日本語

やさしい日本語の広まり

日本語は学ぶのに難しい言語ですが、そのことをすでに理解している人々の間では、それをできるだけわかりやすいものに置き換えようと言う取り組みがなされています。

この取り組みは特に 1995年の阪神淡路大震災以降、震災や津波、台風や集中豪雨など大規模な自然災害において、日本語の学習到達が十分でない人々の命を守るため、できるだけ簡単な言葉で書き表そうと言う目的で起こった運動の1つです。

日本ではすでに200万人以上の外国人(日本国籍を持たない人)が居住していて、すでに人口の数%を構成しています。地域差はありますがもっと割合が高いエリアもあります。

全ての日本語を そこに住んでいる人々の多言語に全て翻訳していてはスペースも設備も余計に必要になりますから、日本語そのものを簡易化すると言うのは合理的な選択です。

また日本人であっても、高齢者で子供の頃に戦争時代を過ごし、教育が十分に受けられなかった人がいたり、若くても病気や事故など原因で学校に通うことが困難な幼少期を過ごした人もいますから、やさしい日本語のメリットを受けるのは必ずしも外国人に限ったものでもありません。

日本語のニュースを読むことができずに避難が遅れたりする自身の命に関わるケースはもちろんのこと、避難に好ましくない交通手段を使って渋滞や事故を起こしたりすれば他の人にも影響がありますから、そのような対策を取ることは大変重要な意味があります。

具体例としては例えば NHKニュースサイトなども “NHK NEWS EASY” という「やさしい日本語」を積極的に使用したニュースサイトがあります。

また既存の難しい日本語のWebサイトを やさしい日本語に 変換する ”伝えるウェブ” のようなシステムもあり、これを使うと難しい単語を置き換えたり、自動的にフリガナを振るなどしてくれます。

こういった取り組みは大変素晴らしいものです。
日本語が難しいもので、簡単にしていかなければならないと自認することは改善のまず入り口です。

特に人の生命に関わる部分においては、必ず達成すべきと言えます。

この取り組みがさらに進んで、その他の民間企業のサービスにまで広く浸透することが期待されます。

使いやすい日本語

上述の「やさしい日本語」は大変有意義なものですが、欠点もあります。

まず「やさしい」と呼称がされますが、これには標準未満であるというような、やや蔑視したニュアンスが含まれます。

どちらかと言えば今 使われている日本語が そもそも「難解な日本語」なのであって、「やさしい」が「ふつうの」と思えるところまで日本人全体の認識が到達しなければ、共通語にはなり得ません。

せめて「基礎日本語」「常用日本語」「主要素日本語」くらいのニュアンスが欲しいところです。

もう1つの観点として重要なのは、そのようなタイプの日本語が、使いやすいものであるかどうかと言うところです。

日本語を使う時に限った話ではありませんが、人間は使いやすいもの、楽なものを使おうと言う傾向があります。

現在の日本語入力システムは、たいていは自動的にカナを振るようには なっていませんし、仮にできたにしても “生物” は「セイブツ」か「なまもの」のどちらが正しいのか文章をよく読まなければ判定はできず、誤判定の訂正が必要ですし、人名や地名など固有名詞はさらに難しいです。

フリガナを振るなどしてデザインが崩れた場合に、手直しするのが面倒であったり、場合によっては追加の費用が発生したりすれば その修正をためらう可能性が高くなります。

ですから、理想的には できる限りカナを振ることなく読みやすいものにすると言うことが重要です。これには純粋に漢字の使用数を減らすと言う以外に、漢字カナを振り直すなど読みやすさの工夫もあります。

例えば(マイ)と(バイ)と(カイ)は 同じツクリを持つのに音が違いますが これを統一すれば学習難易度が下がります。

また基本的に分かち書きを使用しないことから
「その先生命が」は「その先生 命が」か「その先 生命が」のようなものや
「その時間は」が「その時 はざまは」だったりするような、現行の日本語文法では正しい単語分割位置が機械的に判断しづらいケースもあります。

話し言葉になると より顕著で、「私、行ってくる」のように 「〜は」や「〜が」のような助詞を省く傾向があるため単語のやアクセントの付け方など 踏み込んだ議論が必要になります。

そういった部分から見た場合、漢字変換システムで難しい文字に警告を出したり、第三者機関が出版物などに何らかの形でペナルティを与えるなどの働きかけがなければ そのような方向へのシフトはなかなか進まないと考えられます。

もうひとつの問題は、そもそも日本語のカナ50音が果たして簡単なのかです。

ひらがなカタカナ100種と濁点半濁点、拗音、これらについても決して覚えやすいとは言えません。「こんにちは」と「こんにちわ」の違いも難しい問題です。ローマ字では「konnichiwa」と書くことになっていますから、矛盾がたくさんあります。そのレベルでもまだまだ改良余地が残されていると言えるでしょう。

偉くない日本語

教育分野としても課題があると考えられます。

これまでの日本語の教育では、難しい漢字を書いたり、または読んだりすることで、成績で良い評価を与えるような方向があります。

漢字検定のようなものは最悪で、誰も読めないような漢字を書くことが上位級を取ることの条件であったりします。

難しい字を読めると言うことは 読解力の観点で大切ですが、書けることについては 今や コンピュータを使えば手軽に変換して調べられるのですから、それができても 特に偉くもなんとも ありません。

ましてやフリガナを振らなければ読んでもらえないのであれば、手間とコストが余計にかかり、マイナスの影響が ありさえ します。

スコアの与え方として、できるだけ多くの人が読んで内容を理解できることや、声に出して読む際に読み間違えが起きにくいことであったり、実用性の観点で優れた日本語とは何なのかと、改めて見直す必要があります。